今野 敏 襲撃




今野敏の武術に明るい側面が出ている長編のアクション小説です。

空手の試合で膝関節を痛め、実戦空手の世界から遠ざかっていた美崎照人は、裏世界の顔役でもある中華レストランオーナーの劉昌輝から紹介を受けた星野雄蔵という空手選手の治療を終えもう少しで自分の診療所にたどり着くというところで襲撃を受ける。その場は正体不明の何者かの声かけにより助かったものの、襲われる理由が分からなかった。

星野の次の治療日の帰り、再び襲撃された美崎はナイフの傷を負うも、何とか逃げ延びることができた。翌日、すべての診療予定をやめ休んでいると、赤城がやってきてこの襲撃は劉昌輝絡みではないかという。

診療所を再開した美崎が劉昌輝の治療に赴くと、劉昌輝は自分に護衛をつけるという。自分のビジネスに関係する可能性もあるというのだった。


この作品は以前読んだことがある作品だと思っていたら、同様の設定の作品があるのだと、解説の関口苑生氏が書いておられました。それは『拳鬼伝』シリーズの1~3であり、後に『渋谷署強行犯係』シリーズの『密闘』『義闘』『宿闘』と改題され出版されているそうです。

本書が最初に出版されたのは2000年10月で、『拳鬼伝』が出版されたのは1992年6月が最初ですから、似た設定の作品を八年も経ってから書くというのは、それほどに作者が本書の設定を気に行っていたということでしょうか。

確かに、本書は今野敏という作者の作品に流れる格闘技を主題にした系列の作品として、作者の主張が明確に記されている作品のような気もします。それは現代のフルコンタクト制の空手の流れとは異なる、本書で言う琉球古武術の系統の護身術に近い守りのための武術を身につけた主人公の主張を前面に押し出した小説だということです。

それは決してフルコンタクト制の空手を否定するものではありません。そのことは患者の一人のフルコンタクト制の選手との治療中の会話の中で語られていることでもあります。

そもそも主人公の職業である整体も、現代の整体術を学んだ主人公が、自分が学んだ琉球古武術を生かしつつ施術しているように描かれているのです。

本書は、主人公が患者の一人である星野雄蔵という選手の治療を行うことから事件に巻き込まれていくのですが、格闘技に対する作者の考えに加え、中国マフィアという裏社会の闘争を絡めてエンターテインメント小説として仕上げてあります。これは今野敏という作者だからこそ書ける小説だと思われるのです。

そして、本書では膝を痛めている主人公は今でも武術の達人ではありますが、それでも膝の怪我というハンディを抱えていることに加え、達人であっても複数の暴漢に襲われれば、やはり簡単には撃退できない、などのリアリティも持っています。

とはいえ、色々と理屈はつけられますが、そうした話はどうでもよく、要は読んでいて面白い作品だ、という一点につきます。

朝井 まかて 眩


様々な形で小説にも描かれてきた、それも北斎が描かれる際に、脇役として変わった女として描かれることの多かった娘栄(えい)。本書はその栄を主人公として、女絵師応為(画号)を活写した長編小説です。

偉大すぎる父・北斎、兄弟子・渓斎英泉への叶わぬ恋、北斎の名を利用し悪事を重ねる甥―人生にまつわる面倒ごとも、ひとたび筆を握れば全て消え去る。北斎の右腕として風景画から春画までをこなす一方、自分だけの光と色を終生追い続けた女絵師・応為。自問自答する二十代から、傑作「吉原格子先之図」に到る六十代までを、圧倒的リアリティで描き出す。(「BOOK」データベースより)

本書のお栄(応為)は、これまで描かれてきたどの作品よりも一番生きてると感じられ、本書帯の文句にあった「圧倒的リアリティ」という言葉に納得させられました。それは絵師としての応為であり、女としての栄の思いであり、更に北斎と小兎の娘の栄であって、時次郎の叔母としての栄でもあるのです。

浮世絵という世界に浸っている北斎と、同じくその世界であがいている応為の姿が、「絵(浮世絵)」というものの素人である私たち読者に分かりやすく描かれています。

彼女の悩みは、父親のような美しい、思いきった線を引けるようになることでもあるのでしょうが、何よりもこの世の真の色を絵の中に落とし込むことでもあります。全編を通して、応為はいつも色を作り出しています。それは、つまりは貝殻をすりつぶすなどの、絵の具を作りだす作業なのです。

こうした、「色」を作ろうとする応為の行為は、最終的には本書の装丁にも使われている「吉原格子先図」へと結びついていくのでしょう。この光を描く作業は「夜桜美人図」などにも見られるところであり、「東洋のレンブラント」などと称され、応為の再評価につながっているそうです。

一方、女としての応為が随所に顔を見せています。善次郎に寄せる秘めた想い。その想いが成就する場面は官能的です。ここでも「あたしはとうとう毒を食らうのだ。そう思うと、目眩がした。」と「眩」が出てきます。このあと大火などがあって、北斎の家にも寄り付かなくなった善次郎を思う場面で、「誰かと深くなれば、そのぶん遠ざかるものがある。あたしは何を失ったのだろうか。」と独白している応為の姿が印象的でした。

変人北斎のもと、口うるさい母親の小兎(こと)の小言を聞き流し、絵師として名を為していて、「いい女を抱くため」に頑張っているという善次郎こと渓斎英泉にいつしか心惹かれ、そして北斎一家に災難しかもたらさない甥っ子の時太郎に振り回されるしかない応為で、その姿は同じく淋しげです。

クライマックスで、吉原の夜景の美しさをいかに写すか呻吟する場面は圧巻で、そして「命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ。そう、眩々(くらくら)するほどの息吹を描く。」と決めるのです。ここでもタイトルの「眩」が貌を見せています。

まだこの物語の始めの頃、善次郎と共に女芸者である善次郎の妹たちの三味線、琴、胡弓の合奏の場面があります。彼女らの演奏の音を追いながら蝶が飛び立つ想を得るのです。この場面の直前に善次郎が妓楼の襖絵に描いた蝶の絵を思います。ここで大空へ飛び立つ蝶は、侍の身分から解き放たれ、自由を得た善次郎であり、一人の女にもとらわれない善次郎なのかもしれません。

この思いは、この物語の最後に、応為が「どこで生きても、あたしは絵師だ。」と踏み出す姿に重なりました。

最後に挙げられている参考文献は十九冊にもなっていました。緻密に調べられているこの物語は、朝井まかてという作家の上手さを思い知らされる物語でもありました。

熊本大地震について

その日、家族と「秘密の県民ショー」を見て共に笑っていたら、突然の揺れ。いつものようにこれから収まっていく、と思っていたらそれからの揺れが更にひどくなるばかり。

本が落ち、台所で皿が飛び出し、まさかという思いでした。幸い、割れた皿も数枚で、あとは落下した本が散乱しているくらい。思いのほか軽い被害でほっとしていたのです。その夜は、強い余震が続く中、それでも二時間弱ほど眠れたでしょうか。

翌十五日は落下した本をかたずけ、とりあえず貼った食器棚のガムテープはそのままに、次から次へと押し寄せる強い余震のために何もできず、一日が過ぎました。この時点では水道もガスも生きています。風呂にも入れました。余震はあるものの、もう大きなものは無いとの安心感の中寝たのです。

その夜。十六日一時二十五分頃にまた下から突き上げるような強い揺れ。昨日よりもさらに強く、長く、なかなか収まりません。そうしているうちに瓦が落ちる音が聞こえました。

やっと収まり、暗闇の中を枕元に置いておいた懐中電灯を頼りに家の中を調べると、本は若干の追加で落ちたほど。台所はガムテープが効いたのでしょう、異常なし。他の家では食器などが飛び出し家の中が歩けないというのに、このガムテープは嫁さんのファインプレーでした。ただ、昨日は大丈夫だったテレビが倒れていました。電気は切れているのでラジオをつけっぱなしにして、何もできないので布団にもぐりこみました。勿論、余震も続き、眠れません。

まだ読も明けぬ中、お隣さんが給水車が来ていると知らせてくれ、家族と共にとりあえずの水を確保しました。並んでいるとき、避難所へ避難しようとする家族が多数通っていきます。

明るくなってから家の周りを見ると瓦が散乱しています。近所の家はあまり落ちていないのが不思議です。

私の住まう付近では電気はかなり早いうちに回復しました。早速テレビをつけると、写らない。倒れた時に画面を打ったらしく、画面右下を起点として上下左右に線が入り、残り四分の三くらいで画像が出るものの、暗い。そのうちに真っ白になってしまいました。

ということでネットとラジオで情報収集。御船がかなりひどいことになっています。

水もガスも出ないので、早速トイレから困ります。前日入った風呂の湯船の水があったのでとりあえずは流せます。これは助かりました。次は飲み水です。未明に確保した水の他に近所のスーパーで緊急に売り出された水を買い、やはり近所の人が確保した井戸水を分けてもらいました。

電気が生きているのは助かります。電気ポットでお湯を沸かし、電気プレートで焼きものもでき、レンジで温めることも可能です。買い置きがあればの話です。昨日からは少しずつではありますが水も出始めました。ガスも今各家をガス会社の人が回っておられます。全戸での点検を済ませた後でのことになりそうです。

こうして見ると、大きな地震の割には私が住んでいる場所は被害が軽くて済んでいるようです。しかし、より震源に近い場所では現実に家が倒壊しています。私のように自分の家で寝ることなど考えられない人たちが多くおられます。そうした人たちのことを考えると文句など言えるものではありません。近所のスーパーにもかなり遠くの人たちが車でわずかな情報を頼りに駆けつけてきているそうです。

阪神・淡路大震災や東日本大震災の時、九州に住んでいる私たちは、やはりどこか人ごとだったと思います。それがいざ、自分自信のことになって初めて、その怖さ、悲惨さが実感できるものだと思い知らされました。電気、ガス、水道といったライフラインの大切さ、そこに働く人たちの必死の作業で私たちが生活できていることが身にしみて感じられます。更に御船や阿蘇では悲惨なことにもあっていて、警察や自衛隊の方々の作業があっているようです。その方たちの働きの上に私たちの生活があることをかみしめる必要があると思います。

テレビも無く、何もできない中、本だけを読んでいます。でも、その感想を書くまでの気持ちの余裕はありません。この文章も、二日前に書こうと思ったのですが、実際書こうとすると心の余裕がないことに気づきました。やっと、客観的に見れるかなと思います。

この文章を書く間にも何回かの余震を感じました。なんとなく慣れている自分がいます。本震からまだ三日目も経っていないなんて信じられません。

本はまた読みためた分をまとめてアップします。その時はまたお付き合いください。

新規にブログを始めてみた

今までブログというものを書こうと思ったことも無かった。
しかし、60歳を越え、自分で管理するサイトを作ってみたのに合わせ、読んだ本について書き留めておこうという気になった。

無理をせず、ぼちぼち書きためていこうと思う。
最初は今読んでいる本からだが、読了するのが何時になるやら。
次回更新日は多分一週間くらい先になるだろう。
プロフィール

siro

Author:siro
このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR