柚月 裕子 パレートの誤算




いかにも柚月裕子氏らしい、社会性の強い長編のミステリー小説です。

津川市役所に就職したばかりの新人である牧野聡美は、予想外の社会福祉課の、それも生活保護にかかわる業務を任されることになります。同期の小野寺と共にケースワーカーの仕事を覚えるように命じられ憂鬱になっている聡美を、先輩である山川は親身になって心配し、仕事の説明をしてくれるのでした。

その山川が、訪問先のアパートの火災で死体となって発見されるという事件が起きます。調べが進むと、そのアパートには暴力団が出入りしていたらしく、であれば山川が暴力団について記録を残していないのは何故なのか、また安月給でありながら高価な腕時計をしていた理由は何かなどの疑問がわいてくるのでした。

こうした中、聡美は、暴力団の出入りという生活保護不正受給の可能性がある以上は自分たちの仕事であり調べる必要があるとの小野寺の言葉に同調し、小野寺と共に問題のアパートの受給者の身辺を調べ始めるのでした。


生活保護の不正受給の問題は一時期よくニュースでも取り上げられていました。本書内でもそうした事例を紹介してありますが、一軒のアパートに形ばかりの小部屋を作って生活保護受給者に住まわせ、その生活保護費の大半を吸い上げるなどのいわゆる「生活保護ビジネス」と呼ばれる手口が取り上げられていたのを思い出します。

また、役所も生活保護の認定をしたがらず、車を持っていたり、クーラーをつけていたことで認定からはずされたなどの事例がニュースでも取り上げられていたように記憶しています。

そうした現実を前提に、新人公務員を主人公としてケースワーカーという職務、そして生活保護制度を紹介しながら、また生活保護ビジネスなどの暴力団の食いものにもなっている生活保護のシステムの現状を絡めてあります。

その上で、ミステリーとしての面白さも十分に織り込んであり、社会派のミステリーの書き手としてのこの作者らしい物語として仕上がっていました。

特にラストの締めがこの作者らしいですね。社会的弱者を食い物にする人間に対する小野寺の言葉が作者の言いたいことの一つでしょう。また、はっぴい・はあとという冊子の中の「パレートの誤算」と題されたある学生の寄稿文を引用してあり、いろいろな法則で示される二割という数値も、社会的弱者とされる自分たちの努力でゼロにすることができる、と締めてあります。

こうした主張はこの作者の『佐方貞人シリーズ』で示される言わば青臭いとくくられる言葉の延長線上にあるもので、決して嫌いなものではありません。というよりも好きなタッチです。「青臭い」という言葉は正論を直接的に言うと必ず言われる言葉ですから考慮するまでもないと思われます。

ただ、それが考えが足らない場合をも含みかねない点があることには注意しなければなりませんが、この作者の場合はそれには当たらないと思っています。

一点だけ、この事件を調べている刑事の聡子らに対しての口調がかなりの上から目線で、実際の刑事があのような口調で質問するものなのかという、疑問はありました。でも、エンタメ小説上の技法ということも考えられ、特別に取り立てて言うほどのことでもないのでしょう。

柚月 裕子 慈雨


一人の退職警察官のお遍路の巡礼の姿を追った、社会派の長編推理小説です。

警察官を定年退職した神場智則は、妻の香代子とお遍路の旅に出た。42年の警察官人生を振り返る旅の途中で、神場は幼女殺害事件の発生を知り、動揺する。16年前、自らも捜査に加わり、犯人逮捕に至った事件に酷似していたのだ。神場の心に深い傷と悔恨を残した、あの事件に―。元警察官が真実を追う、慟哭のミステリー。 (「BOOK」データベースより)

定年退職を迎えた一人の刑事が、四国八十八か所巡りのお遍路の旅を長年連れ添ってきた妻と共に歩き始めます。歩き遍路の旅の途中で様々な人と出会い、これまでの自分の人生を振り返りながら歩き続けるのです。特に、遍路初日に舞い込んできた幼女誘拐殺人事件の知らせは神場元刑事の悔恨の事件を思い出させます。

「過去に過ちを犯し、大きな後悔を抱えてきた人間が、どう生き直すのか」を書きたかったという著者です。

捜査本部に詰めているかつての部下であり、神場の娘の恋人でもある緒方刑事を通して捜査情報を知る神場は、お遍路の旅の途中で思いついた考えを緒方に伝え、捜査を導くことになります。

柚月裕子という作家が一番書きたいであろう、重い問題提起を含んだ社会性の強いミステリーです。特に、還暦を数年前に迎えた私らの年代には実に重いテーマでした。

この著者の描く物語は、先日読んだなかりの『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』のような軽く読める作品もありますが、『最後の証人』から始まる「佐方貞人シリーズ」に見られるような社会的な強いメッセージを持った作品をその本領とされるようです。本書もまさにそうで、「生き直さなければならないと思う場面に遭遇したときに、どう向き合って決着をつけるか」を問うているのだと言います。

特に佐方貞人シリーズでは、佐方の生き方は「犯された罪はまっとうに裁かれなければならない」ということをそのままに生きているのですが、それは時に書生論としてうつります。実際にはそんなことが言える筈も、出来る筈もない、という現実論の前に、ある種理想論をそのままに主張するのです。

本書の神場もまさにそうで、最終的に下される彼の決意は、まずは自分の妻に更なる苦労を強いることになり、またかつての直属の上司であった鷲尾の生き方に大きな影響を与えてしまっています。ましてや、その後に想像される神場の行動は当時の県警の上層部は勿論、当時の同僚の生き方にまで大きな影響を及ぼさずにはいられない筈なのです。

それでもなお、神場元刑事は自らの生き方の決着をつけるために自分の信念に従って生きていくでしょう。それは現実の自分には出来ないであろう生き方を代わりに実現してくれるという意味で一種のカタルシスをもたらしてくれます。

還暦を過ぎた身としては、自分の人生に全く後悔が無いなどという人はまずいないでしょう。その後悔する事柄を正す機会があったとして、そのためには多くの人の生き方に迷惑をかけるのであれば多分自分の誤りを正す道を選択することはできません。

しかし、それをやってくれるのが小説であり、本書なのです。柚月裕子という作者はそうした青春論をそのままに主張できる作家さんだと思われ、だからこそ私の、そして多くの人の賛同を得ているのだと思います。

歩きお遍路の途中でいろいろな人と出会って種々の人生と触れ合い、そして自らの過去へと戻っていきます。そうした細かなエピソードのの一つ一つが心に染み入ってきます。

柚月 裕子 合理的にあり得ない 上水流涼子の解明


この作家にしては珍しい、肩の凝らない気楽に読める短編のミステリー小説集でした。

主人公は弁護士資格を剥奪されたといういわくありげな過去を持つ上水流涼子という美人女性で、これまた正体が良く分からないIQ140 という頭脳を持つ貴山という男を助手として探偵事務所を経営しています。この女が貴山の力を借り、事務所に持ちこまれた事件を法律の埒外で解決していくという物語です。

第一話「確率的にあり得ない」
とある会社の二代目社長が、ボートレースの結果を全て当てた予知能力を持つという男と5000万円という契約料でコンサルタント契約を結ぼうとしていた。この社長の目を覚まして欲しいという依頼を受けた上水流涼子は一計を案じる。

何の前提知識もなく始まったこの物語は、上水流涼子とその助手である貴山という、この物語の中心となるであろう登場人物の紹介を兼ねた物語です。

とは言っても、彼らの背景については何も語られてはいません。ただ、上水流涼子という人物が弁護士資格を剥奪されたことがあること、助手の貴山が劇団員だった過去を持つ優秀な男であること、などが明かされているだけです。

それでもなお、この物語の展開は気楽に読める物語であることを予想させるものでした。

第二話「合理的にあり得ない」
間もなく還暦を迎える神崎恭一郎は、バブル期に土地取引で莫大な財産を築いていたが、仕事一途で家庭生活を顧みなかったためか、現在の家庭は決して順風とは言えないものだった。そんな折、妻の朱美が霊能力者と自称する女から高額な皿や壺を買わされているということに気付いた神埼は、その霊能力者に直接談判することにするのだった。

意外性のある物語展開、とまでは言えない作品でしょうか。神崎を罠にかけるために採った方法がユニークと言えばユニークで、法律家らしい視点とも言えるのでしょうが、謎解きとしては特別なものがあるわけではありません。

神埼の妻の心の奥の感情を引っ張り出した、という結果だけが残る、本書の中では普通の物語です。

第三話「戦術的にあり得ない」
関東幸甚一家総長の日野照治は、長野県の暴力団横山一家総長の財前満都との賭け将棋で、それまで均衡を保っていたのに三連敗を喫しているという。そのため、次に行われる一億円のかかった将棋で、手段は問わないので絶対に勝たせてくれというのだった。

この物語も、謎解きそのものに新鮮さや、目を見張る点などがあるわけではありません。ただ、貴山がアマチュア五段という将棋の実力の持ち主ということが判明したことが新しく分かったこと、というぐらいでしょうか。

第四話「心情的にあり得ない」
涼子が弁護士資格を剥奪された原因である、涼子のかつての顧問会社の社長から、家出をした孫娘の捜索依頼があった。依頼を受けることに反対する貴山を押し切り、その依頼を受ける涼子だった。

この物語はミステリー、謎解きという側面では何もありません。ただ、上水流涼子の過去、彼女が弁護士資格を失った理由、そして貴山という助手と知り合った事情が明らかにされます。

また、新宿署組織犯罪対策課の薬物銃器対策係の主任である丹波勝利という刑事が登場します。早く嫁に行き「子供を産め」と言い切るセクハラ男でもあるこのキャラクターは今回はそれほど活躍の場面はありませんが、今後活躍しそうだと思われます。

第五話「心理的にあり得ない」
父親が自殺したという娘が父親の無念を晴らしたいと、野球賭博で父親を騙した男への復讐を依頼してきた。

この物語では野球賭博が取り上げられています。野球賭博の仕組みが詳しく語られています。この物語もミステリーというよりも人間ドラマの面白さに目が行くものでした。



全体として、ミステリーとしての面白さに重点があるとは思えず、コンゲームとしての駆け引き、面白さのある物語でした。というよりも、主人公の上水流涼子と貴山という助手のキャラクターの面白さで引っ張っていく物語と言えるかもしれません。

いずれにしても、この作家の新しい側面を見せた小説です。続編が書かれることでしょうから、続けて読みたいと思います。

柚月 裕子 あしたの君へ


家庭裁判所調査官補である望月大地を主人公にした全五編から成る連作の短編小説集です。

「背負う者」(十七歳 友里) 窃盗で捕まった十七歳の友里は、警察では質問にも素直に応えていたが、家裁での大地の質問にはなかなか応じようとはしなかった。大地は事件の背景を調べるために友里の家を訪ねるが、そこはネットカフェだった。人様に迷惑をかけてはいけないという母の言いつけを守る友里だったのだが・・・。

「抱かれる者」(十六歳 潤) ストーカー行為のすえ、カッターナイフをちらつかせ捕まった十六歳の潤だったが、家裁での面接では優等生というしかなかった。しかし、面接に応じようとしない父親に話を聞くと思いもかけない事実が明らかになるのだった。

「縋る者」(二十三歳 理沙) 久しぶりに故郷に帰り、同級生の飲み会に参加する大地だったが、ほのかに恋心を抱いていた同級生の理沙に愚痴をこぼすと、理沙からは意外な言葉が返ってきた。

「責める者」(三十五歳 可南子) この三月から家事事件へと担当が変わった調査官補である大地は、精神的な虐待を理由に妻が離婚を訴えている調停事件を受け持つことになった。しかし、夫も義理の両親への聴取でも虐待をうかがわせるものは無かった。しかし、可南子の通う病院で話を聞くと事情は全く異なる様相を見せるのだった。

「迷う者」(十歳 悠真) 大地は離婚に伴う親権を争う事件を担当することになる。十歳になる悠馬に話を聞いてもはっきりした返事を得ることはできない。ふた親の生活環境を調べると、母親である片岡朋美に男の影があった。


読了後、各種レビューを見ると、現実はこんなもんじゃあない、もっとドロドロしている、だとか、実務的にはこういう処置は取らないのでは、などの意見が散見されました。そして、これらの意見は私の意見でもありました。かつて法律関係の仕事についていたこともある身としては、どうしても小説の中でのきれいごととしか思えなかったのです。

しかしながら、その後著者の言葉や他のレビューなどを読んでいくにつれ印象が変わってきました。小説はあくまで小説であり、現実社会はその参考資料にすぎないし、ある意味現実が純化されたものとしても小説が成り立っているのだから、小説は小説として、現実との齟齬は無視していいのではないか、と思うようになったのです。

そういう視点で見ると、本書は人の善意が全面に出た心温まる物語として十分なものだと思えます。確かに現実社会では本書のようにきちんと結果が出るものでもなく、妥協や諦念などが重みを持ってきます。しかし、そうした現実だからこそ本書のようなある種理想論的な(それでも物語の中でさえ割り切れるものではないのですが)小説も大切ではないかと思えます。

更には主人公望月大地の青春記であり、同期の志水貴志、藤代美由紀ら共にする成長記でもあって、そう考えると多分書かれるであろう続編をも期待を持って読みたくなる小説です。

本書は、広島ヤクザ的存在の悪徳刑事を描いて日本推理作家協会賞を受賞した『孤狼の血』の後に書かれた第一作目の作品だそうです。前作とは全く正反対に位置する物語である本書を書いた点でも、柚月裕子という作者に期待したいと思います。

柚月 裕子 朽ちないサクラ


佐方検事シリーズの柚月裕子による、県警広報広聴課の事務職員の女性を主人公とする警察小説で、タイトルの『朽ちないサクラ』から想像できるテーマそのままに描かれているミステリーです。

米崎県警平井中央署生活安全課が被害届の受理を引き延ばし、慰安旅行に出かけた末に、ストーカー殺人を未然に防げなかったと、新聞にスクープされた。県警広報広聴課で働いて4年、森口泉は、嫌な予感が頭から離れない。親友の新聞記者、千佳が漏らしたのか?「お願い、信じて」そして、千佳は殺された。大藪春彦賞作家、異色の警察小説。(「BOOK」データベースより)

県警広報広聴課に勤務する森口泉は、親友である新聞記者の津村千佳に慰安旅行のことをうっかり漏らしてしまっていたため、スクープされた情報源は自分ではないかと疑っていました。しかし、千佳は自分は誰にも漏らしてはおらず、「この件には、なにか裏があるような気がする」という言葉を言い置いて別れた後、殺されてしまいます。

泉は平井中央署生活安全課に所属する警察官の磯川俊一の力を借りて親友の死の謎を解き明かそうとするのです。

事件は2012年に千葉県警で実際に起きた事件をもとに書かれたものと思われます。とは言っても、相談を受けた警察が被害届受理を先延ばしにした、という舞台設定を借りたと思われるだけで、あとは作者の創作によるものです。

やはりこの作者の物語はそれなりの読み応えがあります。「それなりの」と書いたのは、若干の不満があるからです。

まず第一点。これは不満として取り上げるほどのこともないのですが、主人公の女性を警察官ではなく事務方にした理由がよく分かりません。この作者が尊敬するという横山秀夫の作品で、警察内部の一般的ではない部署を表に出していますが、そこではその部署であることに物語の必然性を持たせています。でもこの物語ではそういう点では必然性はありません。ただ、物語の締めとして泉の為した決心がかかわると言えないこともなく、これを書きたかったというのであれば話は別です。ならばもう少し事務方と設定した理由を書いてほしかった。

そして第二点、これが大きい。読後にネット上のレビューを読むとどうも同様の印象を抱かれた方が多いようです。それは、ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、本書の事件の犯人像と言いますか、事件解決の処理の仕方が素直には受け入れることのできないことですね。

当初から荒唐無稽なアクション小説であるのであれば格別、本作品はそれなりのリアリティを持っているミステリーとして書かれているために、本書の結論は受け入れにくいのです。せっかくの面白い物語が最後でしぼんでしまいました。

まあ、一番目の理由は私の個人的な好みにもかかわることなのであえた書くほどではないことかもしれません。でも、二番目の理由は物語の根幹にかかわることでもあります。この点だけが残念ではありましたが、基本的にこの作家の紡ぎだす物語はエンターテインメント小説としての面白さを期待でき、またその期待に十分に応えてくれる物語だと言えます。今後の活躍にも期待したいです。

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このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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