上田 早夕里 破滅の王
第32回(2011年)日本SF大賞を受賞した『華竜の宮』を書いた上田早夕里による、日中戦争前夜の中国、特に上海を舞台にした細菌兵器をめぐるミステリータッチの物語です。また、第159回直木賞の候補作ともなっている作品です。
京大卒業後も大学の微生物研究室で働いていた宮本は、教授から上海自然科学研究所の話を持ちかけられた。1936年、二十五歳になった宮本は、上海自然科学研究所内の職員宿舎へと移り住む。
宮本を待っていたのは、国際的な環境下での自由な研究という期待通りのものだったが、しかし時代はそれを許さず、1937年の盧溝橋事件、次いで通州事件、第二次上海事変と立て続けに中国との衝突が起きるのだった。
そして1943年6月下旬、宮本は突然、共同租界の日本総領事館で、菱名総領事代理と南京日本大使館附武官補佐官の灰塚少佐から、とある文書の翻訳を命じられるのだった。
この文書に書かれているバクテリアこそR2v、暗号名キングと呼ばれる細菌であって、悪くすれば人類滅亡の引き金ともなるべきものだった。このあと、宮本はキングをめぐる争いに巻き込まれていく。
本書の読む前は、当然『華竜の宮』のようなSF作品だとの勝手な思い込みを持っていました。というのも、作者上田 早夕里の『夢みる葦笛』という作品集の中に「上海フランス租界祁斉路三二〇号」という短編があり、その作品が上海自然科学研究所を舞台にした物語だったのです。
しかし、本書の内容は全く異なるものでした。つまり、近代の戦争を語るとき、核兵器、生物兵器、化学兵器を指す「ABC兵器」という言葉を聞くことがありますが、本書はそのうちの生物兵器をテーマにした、シリアスな物語だったのです。
それも、本書巻末に載せられた50冊を超える参考文献の数でも分かるように、現実の歴史的、学問的な膨大な資料を読みこんで緻密に構成されたこの作者らしい物語であり、実に読み応えのある作品でした。
本書の主人公は宮本という研究者ですが、他に六川正一、早崎正二、嵯峨武史、真須木一郎といった研究者が登場し、「キング」と呼ばれる細菌について色々な立場からのアプローチを見せます。そのそれぞれに、研究者としての、そして人間としての顔があり、葛藤をみせるのです。
加えて、灰塚少佐という強烈な個性を持った登場人物がいて、この時代の軍隊の中で宮本らに大きな影響を与えます。この灰塚少佐が魅力的であり、この物語に大きな影響を与えています。
本作品のもつ魅力の一つは、時代背景を反映して、反対意見も明確な根拠を示しそれなりの説得力を持って描写してあるところにあります。そして、そうした執筆態度は『華竜の宮』を始めとする他の作品でもそうだったところを見ると、この上田早夕里という作者の持ち味のようです。
対立する意見を簡単に浅薄な意見として片付けてしまうのではなく、どうかすると読んでいる読者も引きずられてしまいそうになるまでに、考察し、考え抜かれていると思われるのです。
本書の面白さは、キングと呼ばれる細菌の行方にあると同時に、六川殺しの犯人は誰かという観点での興味もあります。日中戦争前夜の上海の雰囲気なども関心の対象ではありますが、やはりキング絡みのミステリータッチの構成に惹かれるのではないでしょうか。
ともかく、上田早夕里という作家の新境地を示した作品であることは間違いないと思われますし、SF作品と同様に惹きつけられる作品でした。