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青山 文平 遠縁の女


どの作品も武士の暮らし向きが苦しくなる江戸も後期(と言っていいものか)の寛政のころを舞台としており、、やはり青山文平の物語だ、とあらためて感じ入ってしまう、文学の香りすら漂う三篇の物語からなる、中編小説集です。

三篇とも一人称で語られているのですが、この主人公の語りがしみじみと読み手の心に語りかけてきます。その上で、話の展開が実にミステリアスに進むのです。特に最終話である表題作『遠縁の女』は、上質のミステリーを読んだような印象さえあります。

「機織る武家」

入り婿とその後添え、そして姑という、全くの血のつながりの無い三人が一つ屋根の下暮らしています。戸主である婿は剣の腕もあり見栄えもそこそこであるものの、勤めに関しては全くの能なしである武井由人という郡役所の下僚です。姑は元百石取りの上士であったことだけが生きがいともいえる女でした。

あるとき、また家禄の差し替えとなり、三十俵が十表となります。勿論食えず、「わたし」が賃機をすることになるのです。この賃機が武井家の生活を変えることになるのですが、代わりに久代は久代でなくなり、由人もろくでなしが普通の人になってくるのでした。

自分の居場所を確保しようと必死になっていた縫。美濃紙一枚ほどの広さの由人の居場所の片隅に自分の居場所を見つけようとしていたのですが、知らずの内に自分の居場所は大きくなり、由人も姑も縫の居場所の片隅に住まうようになっているのです。

そのことを淋しく思う縫。その気持ちは何なのでしょう。久代を思う縫の心根は単なる「優しさ」と言っては間違ったことになりそうです。

最後にはわたしである縫の抱える屈託が明かされることになりますが、そこでの明かされ方がまた心をうちます。

「沼尻新田」

番方である父親から新田開拓の話を持ちかけられた私、柴山和巳は、知行取りの家にのみ下された今回の開発許可をあまり喜ばしいものとは思ってはいませんでした。というのも、新田の開発は録米の借り上げの代わりであり、沼尻新田と呼ばれるその土地は、砂ばかりの土地であるやもしれず、水すらないと思わねばならない土地だったのです。

現地に行った柴山和巳は、クロマツの林の中で「すみ」という野方の女と出会い、一目で魅せられてしまいます。そして、ある思いから新田開発を受けるのです。

当時の経済の仕組みの一端を垣間見せる物語でもあります。すなわち、武家の給料は、蔵米取りと知行取りとがあり、蔵米取りとは家禄を米俵で受取り、知行取りは領地をもち、そこからの年貢が給料ということになります。本来の武家は領地を持ち国を治めていたわけで、知行取りこそが本来の姿であったことになります。

また、野方の者とはその昔、人減らしの意味をも含めて原野に放り出した一族の末でした。「彼らは私だった」のであり、私は家のこと、御国のこと、そして何よりも「すみ」と野方衆のことを考えねばならなかった、のです。

藩の重鎮の右腕とされている自分の立場で最善のことを為そうとする一人の男の物語です。ある種のファンタジーでもある、一人の侍の一途な想いを語る好編です。

「遠縁の女」

好きでも無い学問はそこそこにできるが、好きな剣は頭打ちになっている片倉隆明は、五年を目途に武者修行へと出立します。

この五年の修行の様子そのものも惹き込まれる物語でした。

竹刀稽古から木刀での稽古までの本来の意味を盛り込みながら、強い百姓らの稽古する野の稽古場という道場に行きつきます。ここでの、百姓らの剣は生きるためであり、武士の剣は死ぬためのものである、という話は印象的です。

また、主人公の「かな字の欠片」という言葉、砕け散ったそれまでの剣の修行を再構築する必要性を「かな字の欠片」という言葉で表すその魅力には惹かれました。

この道場での生活は魅力的なひと時でしたが、急な知らせで郷里に帰った主人公を待っていたのは意外な事実でした。勿論、表題から予想できる「遠縁の女」が絡んでくるとは思っていたのですが、その絡み方が思いもかけない展開だったのです。


新しい作品を読むたびに、今までの作品よりも更に上を行くのではないかと思う、そんな気さえ感じさせる著者、青山文平氏のこの頃の作品です。本作品は、中でも素晴らしい作品でした。何故この作品にそれほどに魅せられるのでしょう。じっくりと考えてみましょうか。

青山 文平 励み場


やはり、この本も私の好きな青山文平の作品でありました。装丁は私の好きな村田涼平氏の画で為されており、それは、いつもながらに静かなたたずまいを見せる侍の画でした。

本書の最初のほうでは「勘定所は、幕府の御役所の中で数少ない励み場である。」などの一文もあって、主人公がのし上がっていく姿が描かれるものと思っていました。また、豪農の娘智恵とその夫笹森信郎の二人に焦点が当たっていて、この作者にしては珍しい物語だと思っていたところ、結末はやはり侍の物語として収まっていたのには驚きました。

まず、主人公の一人である智恵について、「智恵はともえと読むが、多喜はときどきちえと呼ぶ。どうやら・・・」とさらりとその読み方が述べてあります。多喜とは智恵の姉であり、奔放に生きている女です。「多喜は勝手に話題を変える。呼び方も、ちえからあんたに戻る。」と調子よく続き、これらが二人の紹介文にもなり、伏線にもなっていて後になり生きてきます。

その後に「名子」についてのひとくだりがあり、続けて、徳川の代になって新たに開かれた田畑に入植してできた村のことを新田村と言い、それ以前からあった村のことを本田村と言う説明があります。ここらの説明も説明のための説明ではなく物語は自然に流れています。

こうした、「村」の成り立ちやその村の中での個々人の在り方、などがこの物語の下敷きとしてあり、その上で。笹森信郎という一人の男の生きざまが、その妻になった智恵の煩悶と共に語られていくのです。

こうした物語の運び方が、簡潔な文章と共に心に響き、読み手として物語に引き込まれるのでしょう。

「名子」という存在がこの物語の根幹なのですが、「名子」については「豪農らの隷属農民」という説明はあっても、本書のような「江戸幕府開闢(かいびゃく)時に、武家の身分より領地をとって農民になった名主の、昔の家臣が『名子』」だという解説はどこにも見つけることはできませんでした。まあ、ここは作者の説明をそのまま受け入れましょう。

この物語が上手いと思ったのは、正面から謎を提示しているわけではないのに、読み進めるうちに、いつの間にか「何故」が提示されており、その解明に引き込まれてしまうという構造です。それは信郎だけでなく、智恵についてもそうなのです。クライマックスで明かされるそれぞれの秘密。上質なミステリーを読んだようでもあり、それでいて常の青山文平の作風である侍のそしてその妻の、自分に正直に生きる姿が読者に提示されているのです。

物語としての作り方の緻密さ、上手さはこの作家の作品の中では一番ではないかと思います。今までは『白樫の木の下で』を超える作品は無いと思っていたのですが、物語の持つ研ぎ澄まされた雰囲気は別として、小説としての面白さでは本書のほうが面白いかもしれないと思っています。

青山 文平 半席


徒目付の片岡直人を主人公として、彼の目を通して開かれる侍の生きざまを描き出した連作の時代短編小説集です。

本書の第一作の「半席」を読み始めるとすぐに既読感に襲われました。調べると、同じ作品が『約定』という作品集の中に収められていました。同じ作品を別の作品集へ再録することは、ありがちなこととは言え、特に青山文平という作家は個人的には一番好きな人でもありましたので非常に残念に思ったものです。

などと思っていたら、違いました。本書は「半席」に登場していた片岡直人を主人公とする作品集だったのです。『約定』所収の「半席」の評判の故か、若しくは作者の思い入れのためなのか、成り行きはどうかは分かりませんが、片岡直人が解き明かしていく人間模様は読み応え十分でした。

半席とは一代御目見え(いちだいおめみえ)という家柄のことを言います。半席である片岡直人は永代御目見え以上になるために気を入れて仕事をしなければなりません。しかしながら、組頭の内藤康平は煩多な徒目付の御用のかたわらに頼まれ御用を申しつけてくるのです。本来はそれどころではない直人ですが、頼まれ御用の先に見える人間臭さに魅せられたのか、何度か引きうけてしまいます。

本書は推理小説でいうホワイダニット(Why done it)の手法ということもできます。犯人は分かっており、直人が行うのは何故そのような行動を取ったのか、ということです。上司の内藤によれば青臭さのある直人だからこそ犯人も話す気になるということです。

内藤康平という上司は「旨いもんじゃあねえといけねえなんてことはさらさらねえが、人間、旨いもんを喰やあ、自然と笑顔になる。」というのが口癖です。この内藤と直人の会話もまた本書の魅力の一つなのです。

それが、各話の冒頭で神田多町の居酒屋「七五屋」において為される、亭主の釣った魚での料理に舌鼓を打ちながらの料理談義です。組頭である内藤を「波正太郎の小説の登場人物のよう」と書いているレビューもありました。

「半席」は筏(いかだ)の上を走り堀に飛び込み死亡した侍、「真桑瓜」は共に八十歳以上の侍同士の刃傷沙汰、「六代目中村庄蔵」は一季奉公の侍の主殺し、「蓼を喰う」は辻番所組合の仲間内を手に掛けた御庭番、というそれぞれの登場人物の人間模様があぶり出されます。

また「見抜く者」は徒歩目付の仕事の中でも人の恨みを買いやすい人物調べの絡んだ話で、直人や内藤の通う念流道場の道場主の芳賀源一郎をも巻き込んだ、珍しいアクション場面のはいった物語です。そして「役替」は同じ町内に住み共に召し挙げられた仲間の父親との思いもかけない邂逅がもたらした行く末が語られます。

いつも「侍」の生きざまを描かれてきた作者が、老いという時の経過の果てに、自らの人生を振り返ったときにもたらされる悲痛な思いを描き出した作品集です。主人公の片岡という青臭さを持った若者が、老練な上司に見守られながら成長していく物語でもあります。やはりこの作家は良い。

青山 文平 つまをめとらば


「ひともうらやむ」「つゆかせぎ」「乳付」「ひと夏」「逢対」「つまをめとらば」の六編からなる短編集です。青山文平という、“侍”を描いてきた作者が初めて、(多分初めて)女性を巡る男たちを描かれています。

「ひともうらやむ」 長倉克巳は眉目秀麗で目録の腕前を持つ秀才で、長倉家本家の総領です。一方、長倉庄平は同じ総領であっても長倉分家の分家の総領です。女ならば誰しも惚れるであろうその克巳が、幕府の御番医師との声もあり、皆のあこがれの的であった浅沼一斎という医師の娘の世津を娶ることになった。しかし長倉庄平の・・・。

「つゆかせぎ」 妻の朋が急な心臓の病で逝って二十日ばかり後、地本問屋(今の本屋)の手代だという男が朋を訪ねてきた。朋は竹亭化月の筆名で戯作を頼んでいたという。朋は木挽町の芝居小屋の娘であったため意外ということでもなかったのだが・・・。

「乳付」 民恵は神尾信明に嫁ぎ、長男新次郎を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く我が子に乳をやることもできないでいた。そこに瀬紀という遠縁の妻女に乳付をしてもらうことになった。瀬紀は民恵と同じ年かっこうであったが、同じ女でも魅入られてしまうほどに輝いていたのだった。

「ひと夏」 部屋済みである高林啓吾は、石山道場奥山念流目録の腕前を持っていた。ある日、誰が赴任しても二年ともたないという御勤めを仰せつかる。しかし、赴任先には、百姓たちは藩の役人をあからさまに見下すが、それに対し何もできない事情があった。

「逢対」 無役の旗本である竹内泰郎は、幼馴染の北島義人と共に、無益の者が出仕を求めて日参する「逢対」に同行する。しかし、北島ではなく、自分だけが呼び出されることになった。

「つまをめとらば」 深堀省吾は幼馴染の山脇貞次郎に家作を貸すこととなった。妻の不義で離縁したため独り身の省吾にとり、気の置けない幼馴染との暮らしは心地よいものだったが、貞次郎には思いを寄せている娘がいて、言い出せずにいるという。

本作品集は、これまでのこの作家の物語とは少しですが趣が異なります。女性を主題にしているからでしょうか、全体的にどことなくユーモアという薄幕をまとわせてあるのです。

これまでの作品では「侍」を前面に押し出し、その生き方を直截的に描くことが多かったと思います。勿論これまでもユーモラスな物語が皆無だというわけではありません。しかし、それらの作品も結局は「侍の生き方」に結びつくものでした。

本書の場合、「乳付」を除いてはやはり主人公は男で、男である主人公の内面を描き出してはいるのですが、「ひと夏」や「つまをめとらば」などは特に、種々の女性の形を描くことで’侍’というよりは’一個の人間’を描いているようです。

現在のあまたおられる時代小説作家の中で一番私の好みに合致するのがこの青山文平という作家さんです。侍のあり方を問う物語の組み立て、硬質ではあるものの格調高く、品格を保っているその文章は、心揺さぶられるものがあるのです。

青山 文平 鬼はもとより


奥脇抄一郎は、武芸の路から女遊びにのめり込み、遊び人となっていたが、「なにかをしでかしたはみ出し者」をまとめて設けられた「藩札掛」を命じられ、世話役の佐島兵右衛門(さじまへいえもん)のもと、藩札の仕組みから叩きこまれる。しかし、兵右衛門の急死により抄一郎が責任者となるが、飢饉に際し藩の重役の藩札の刷り増しの命に逆らい、藩札の原版を持って脱藩してしまう。その後、江戸に出た抄一郎は旗本の深井藤兵衛(ふかいとうべえ)の知己を得るなかで、藩札板行指南を業とするようになるのだった。

本書は武士の世界に経済の側面から光が当てられています。つまり、主人公抄一郎は「国を大元から立て直す仕法」の背骨を掴み取り、その仕法を別の藩で試すのですが、その流れが実にダイナミックに描写されているのです。

藩札の板行には正貨の裏付けが必要だが、刷る額面のおよそ三割は正貨の準備が必要、などの藩札の仕組みを相談者相手に語る場面は、経済の素人にも理解しやすく、新たな知識をもたらしてくれる面白さもあります。その数値の真偽のは正しいのだろうとしか分かりませんが、そういうものだと納得できる書き方なのです。

とはいえ、青山文平という作者の根本は常に「侍」存在そのものの在り方を問うていて、抄一郎が見つけた仕法の肝(きも)もその点に関わってきます。先に亡くなった佐島兵右衛門の姿から抄一郎が感じる覚悟も、「命を賭す腹が据わっているか」が大事ということでした。

更にはより直截的に、「武家とは、いつでも死ぬことができる者であ」って、「武家のあらゆる振る舞いの根は、そこにある」と抄一郎の独白の中で語らせています。このように本書の少なくない個所で、侍の「死の覚悟」への言及があります。

青山文平の作品の中に『かけおちる』という作品があります。この作品も藩の財政の立て直しのために殖産事業に命をかける侍が描かれていますが、本書はその藩札版といったところでしょうか。青山文平は、単に侍を描く舞台設定としてだけではなく、侍の世を経済という新たな視点から見詰め直すという試みをしているのかもしれません。

一点、良く分からないところもありました。それは、抄一郎が女遊びにのめり込んだ時期がある、という設定の持つ意味です。

確かに、女に対して「鬼畜」と呼ばれた抄一郎に対し、その親友で獣(けだもの)と呼ばれた長坂甚八(ながさかじんぱち)が抄一郎の人生の奥底にずっと漂っています。その点では女遊びの描写も意味を持つのかもしれないのですが、その甚八の存在そのもののこの物語における意味が、今一つ良く分かりません。作者の意図は何なのでしょう。

更には藩の立て直しの仕法を実行する東北の小藩の執政に絡んでも女が語られます。この点もよく分からない。そして、本書の最後の一行も女のことで締められるのです。

こうしてみると、女という存在が抄一郎の芯に何か影響を与えているのかもれません。

そうした疑問はありますが、やはりこの作家は今の私の中では浅田次郎などと共に一番の作家でなのです。そして、本書は色々と考えさせられ、また単純に物語としても面白い小説です。

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このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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