三浦 しをん 政と源


あれほどの地震があっても、一日は普通に過ぎていき、あの地震から三週間も過ぎてしまいました。

余震は次第に弱く、そして間遠くなってはいますが、更に大きな奴が来るのではと、誰もが小さくない不安の中で一日を送っています。

昨夜は余震では一度だけ目が覚めました。朝になってネットで確認すると、震度1だということでした。自分の感覚はいつも一つ分だけ大きく感じています。

今回の本は震災後最初に読んだ本です。この作者の作品はとても読みやすくいつもほのぼのとしているので、ささくれ立った神経を休めるには一番だと思ったのです。しかし、若干の期待外れでもありました。

七十歳も過ぎた爺さん二人が織りなす人情喜劇です。三浦しをん氏の作品群の中ではお勧めの程度は高いとは言えない作品でした。

嫁さんに愛想を尽かされ、現在別居中の真面目だけが取り柄という国政、対してこめかみに残ったわずかな毛をさまざまな色に染め分ける、つまみ簪職人の源二郎という二人が織りなす人情劇です。

勿論、三浦しをんという名手が紡ぎ出した物語ですからそれなりの面白さはあります。しかし、七十歳も越えた老人二人の元気良さはまだしも、何故か感情移入ができにくいのです。『まほろ駅前シリーズ』の多田と行天、『神去シリーズ』の勇気と与喜など、この作家の登場人物はどれもひと癖もふた癖もありそうな個性豊かな人間で、それでいて身近にいそうな親しみを感じる人たちでした。

本書の二人の場合、この身近に居そうなという感じがしません。つまみ簪という初めて耳にする言葉を知ったことが収穫と言えば言えるかもしれませんが、人間ドラマというほどに人間が描かれているとも感じられず、三浦しをんという作家にしては厚みのない物語だと残念に思いながらの読了でした。

本書の二人には感情移入がしにくいのは、私と年齢が似ているためかとも思ってみました。といっても私よりは十歳位は年上なのですが。その二人が若者に喧嘩を売ったり、別居状態の嫁さんとよりを戻すべくあがいてみたりと何かと動き回りますが、源二郎の弟子である徹平の行動も含め、あまりに軽いとしか思えないのです。

違和感の原因の一つは、本書のイラストが少女漫画のそれだということもあると思います。とてものこと七十過ぎの爺さんではありません。

読後にこの物語が少女小説雑誌に掲載されていたものだと知りました。だから物語の厚みをあえて無くした書き方になっているのかと、もともとゆるめの作風である三浦しをんという作家ですから、読み手の年齢を考慮するとこう言う書き方になるのかと、納得したのです。

三浦 しをん 仏果を得ず


三浦しをんという作家は、さまざまな職種の主人公を設定していますが、今回は文楽です。日本を代表する伝統芸能の一つである人形浄瑠璃文楽は、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術で、今回の主人公はこの太夫の語りに精進する若者です。

高校の修学旅行で人形浄瑠璃・文楽を観劇した健は、義太夫を語る大夫のエネルギーに圧倒されその虜になる。以来、義太夫を極めるため、傍からはバカに見えるほどの情熱を傾ける中、ある女性に恋をする。芸か恋か。悩む健は、人を愛することで義太夫の肝をつかんでいく―。若手大夫の成長を描く青春小説の傑作(「BOOK」データベースより)

あい変らず読ませ方がうまい作家さんです。文楽の世界など全く知らない私ですが、どこかで聞いたことのある「義太夫」とか「仮名手本忠臣蔵」などの名詞が飛び交う中、いつの間にか作中の世界に浸っていました。

そもそも人形浄瑠璃というものを詳しくは知りません。テレビの画面の中で数回、それもいくつかの場面を見た事があるだけです。今では「文楽」という言葉は人形浄瑠璃のことを意味しますが、本来は人形浄瑠璃専門の劇場の名だったそうです。その文楽での語りを担当する太夫が今回の主人公になります。

芸の道を生きる人を描いた作品は、芸道とは縁遠いところで暮らしている私たちのような一般人にとって理解のしにくい分野ではあります。見知らぬ分野であっても、この作者の作品でいえば『船を編む』の辞書の編纂の世界もその実際は分からないものの、まだ理解の範疇にあると思えますし、『風が強く吹いている』の駅伝の世界でも同様です。本当は知らない世界であっても、普通人の日常の生活から追体験できる気になれる分野なのです。

しかし、「芸」の道は感性の問題であり、とても一般人の理解できる世界ではないと思うのです。それを小説家という人たちは、感性の世界を私たちも理解できると思える世界に再構築してくれています。

本当は柔道や格闘技を描く武道小説も、剣豪小説の剣の道にしても同様のことが言えるのでしょうが、「芸道」よりは身近に思えます。それは、単に自分が芸の道から遠いところにいるからなのかもしれませんが。

ただ、その感覚が離れすぎていると、読者も引かざるを得ないのですが、三浦しをんという作家はそこらがうまく、私のような一般素人でも、浄瑠璃の作品世界の解釈に苦しんでいる主人公の内面を理解できるような気にさせてくれるのです。

そうはいっても、やはり少々ついていけないところもあります。最もそう思うのは、小学生が浄瑠璃の舞台を見て涙を流す場面であり、やはり理解できません。まず、小学生は高学年ではあっても言葉の意味すら理解できないでしょうし、言葉の意味を教えていたにしても小学生の感性で涙まで流す表現にはついていけません。私にとってその場面は物語の世界を壊す場面でした。

とはいえ、三浦しをんという人は、やはり物語の作り方がうまい作家という印象しかありません。若干好みは分かれるかもしれませんが、面白い小説ではありました。

蛇足ですが、わが郷土の熊本でも人形浄瑠璃の常設小屋(と言っていいのか分かりません)があります。阿蘇の南、宮崎県との県境近くの山都町にある「清和文楽館」というのがそれです。私の奥さんは行ったことがあり、素晴らしかったそうです。残念ながら私はまだ行ったことがありません。

三浦 しをん 神去なあなあ夜話


前作『神去なあなあ日常』のその後の物語です。中村林業株式会社の正社員になった平野勇気の、ネット接続もないパソコンに入力されている読者のいない記録、という設定もそのままです。

今回は「神去山の起源」から始まる全七夜の構成になっていて、繁ばあちゃんの語る神去村の起源が語られる昔話が第一夜です。

次いで第二夜は「神去山の恋愛事情」。ヨキとその妻みきさんとの馴れ初めの物語。

第三夜「神去山のおやかたさん」と第四夜「神去山の事故、遭難」とで、中村林業株式会社の社長中村清一さんとヨキたちの親を襲った災難についての話が明かされます。

第五夜「神去山の失せもの探し」は巌(いわお)さんちの裏山にあるお稲荷さんのお話。

第六夜は「神去山のクリスマス」で、クリスマスを知らない清一さんの子、山太のために皆でクリスマスパーティを企画し、最終夜「神去山のいつもなあなあ」でクリスマス当日のパーティの模様が語られます。

勿論、これらの話の間には山のトリビア的知識もちりばめてあります。例えば、周りの山は殆ど植林されていて杉かヒノキしかないので紅葉することはありません。しかし、それら緑の中にぽつぽつと広葉樹があって色を変えるけど、何故広葉樹があるといえば、一つには土地の境界を示すことであり、一つにはご神木だったりして切れない、などのいくつかの理由があるのです。

また、勇気と直記との恋の行方も記してあります。というよりも、全体を通して、この二人の恋の進展が語られているとも言えるでしょう。

前作に比べると少々全体として小ぶりになっている感じはありますが、それでも三浦しをんの物語です。軽く読めて、それでいてとても心地良い物語なのです。

三浦 しをん まほろ駅前狂騒曲


おなじみの面子の多田と行天に加え、本作では『番外地』で登場した柏木亜沙子が加わっています。また、本書では「はる」という四歳の女の子がキーマンとして登場するのです。

多田は、行天の過去を知る女性から頼まれ、少しの間、「はる」という名の女の子を預かることになった。問題は極端なまでに子供を嫌う行天なのだが、なんとか騙しながらも三人の共同生活が始まる。三人で暮らす間にも仕事は入り、星の絡んだ依頼や、岡氏を中心とした年寄りたちの騒動に巻き込まれたりと、多田は息のつけない毎日を送るのだった。

本書で登場する女の子「はる」は行天の過去に関係する女の子なのですが、子供に対して異常なまでの拒絶反応を示す行天の、四歳の女の子とのやり取りはまた見ものです。四歳にしては少々達者すぎるとも思えますが、そういう点は物語のリアリティを損なうものでもなく、かえってこの作者の世界が十二分に広がって、より楽しめる物語となっています。

この作品の主軸が「はる」だとすると、横軸として、無農薬野菜の推進団体の話があり、そこで多田と行天の過去が少しずつ明らかにされます。結局は二人の過去も「はる」に何らかの意味で繋がるものではあるのだけれど、そこには家族や夫婦のあり方など、読者に色々と考えさせられるものがあります。

加えて、個々の便利屋の仕事先での出来事もまた物語のリズムを作り、その物語のそれぞれがユニークです。極めつけは、無農薬野菜の推進団体に裏社会のキング的存在の星が関わり、ちょっとした事件となって、そこにこれまた本シリーズの常連である岡氏が騒ぎを巻き起こします。

多田本人の身の上にも変化はあって、勿論そこには行天も絡んでのドタバタが繰り広げられ、ちょっとしたロマンスも生まれるのです。

一点、小さな不満を書くとすれば、ラストシーンの星の立ち位置でしょうか。裏社会で幅を利かせているのなら、もう少し距離を置いてほしかった。詳しくは書けませんが、ワルなりの関わり方を貫いてほしかった、それくらいでしょうか。ここに書く程の事でもないのですが。

あらためて多田と行天を見ると、この面白くも不思議な関係性は読者にとって一つの理想的な関係性かもしれません。「友情」などという言葉は過去のものであり、死語となりつつある現在ですが、そうした関係性には誰しも憧れるのではないでしょうか。そうした関係性を大声で主張することなく、いつの間にか作り上げていくところが、この著者のうまさなのでしょう。

読書に、どれだけ幸せなときを過ごせたか、ということを一つの目安とする私には、三浦しをんの小説は最高の時をもたらしてくれる一冊であり、今のところはずれはありません。

三浦 しをん 神去なあなあ日常


いかにも三浦しをんの作品らしい物語です。

主人公の平野勇気(ひらのゆうき)は、高校卒業後はフリーターでもしながら適当にやっていこうと思っていたのだが、親と教師とが結託し、三重県の山奥にある神去村で就職することとなった。近鉄の松阪で乗り換え、名前も知らないローカル線の終点の無人駅に着くと、そこは山の中。迎えの飯田与喜(いいだよき)という男に、どうせ圏外だからと携帯の電池パックを捨てられ、そこからさらに軽トラックで一時間ほど走り、神去村の「中(なか)」地区にに着いた。そこの林業組合で二十日程の研修を受けた後、これから勇気が働くことになる神去村の最奥部の神去地区の中村林業株式会社へと連れて行かれたのだった。

本書は主人公平野勇気の手記の形をとっていて、勇気の一人称で語られていきます。高校の成績もよくなかったという男にしては文章がうま過ぎる、とも言えるでしょうが、その点はまあ小説の決まりごととして横に置いておきましょう。とまれ、健やかに、爽やかに物語は展開していきます。読んでいて楽だし、楽しいし、ケチをつけるところもありません。

最初に山に入った勇気は、雪の重みでしなっている木を縄で反対側に引っ張り真っ直ぐにして、木の商品価値を維持するための「雪起こし」をするのですが、当然のことながらミスもしてしまいます。その夜、布団の中で山から聞こえてくる木の折れる音を聞きながら、哀しみに襲われる勇気でした。その当時の自分を思い、「鳴いたり動いたりしない木もたしかに生きていて、それと長い年月かけて向きあうのがこの仕事なんだ」と、一年後の現在の勇気が語りかけるのです。

こうして自分をじっくりと見つめ直したり、自然や物事に対し真摯に向き合い、そこから普遍的な意味合いを導き出す様子は、三浦しをんの作品ではよく見られる場面です。そこに見られる作者の温かな視点こそが、三浦しをんの作品が読者の支持を得ている理由ではないかと思います。さらりとした文章が、ゆっくりと心に染み入ってくるのです。

勿論、本当の林業の厳しさ、辛さの描写はさらりとかわしてあるので現実とは異なるでしょう。しかし、それでも林業の作業の内容を少しずつ説明しながら、忘れられつつある日本の林業の現状を示してあります。その説明に乗せて勇気の成長が語られるのです。

三浦しをんの小説ですからキャラクタの造形は相変わらずに面白く、勇気の世話係になるヨキこと飯田与喜のキャラが際立っています。山仕事のエキスパートであり、野生児なのですが、嫁さんには頭が上がりません。乱暴者というわけではなく、勇気に対しては思いのほかに細やかな神経を払うときもあります。しかし、殆どの場合は、「なあなあ」で済ませてしまいます。まあ、ゆっくり行こうか、とでも言っていいのでしょうか。

それに、勇気がほのかに片想いをする中村林業の社長の嫁である祐子の妹直紀(なおき)も登場し、勇気の青春記ともなっています。

続編で『神去なあなあ夜話』という作品が出ているので、早速借りて来ました。

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本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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