宇江佐 真理  雪まろげ

雪まろげ: 古手屋喜十 為事覚え雪まろげ: 古手屋喜十 為事覚え
(2013/10/22)
宇江佐 真理

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相変わらず宇江佐真理の小説は心豊かになります。本書は二年前(2011年9月)に出た『古手屋喜十為事覚え』の続編で、六編からなる連作短編集です。

古手屋とは古着屋のこと。百万都市である江戸の町は資源の有効利用が発達し、効率的な循環型社会でした。金属製品の修理をする「鋳掛け屋」、桶や樽の箍(たが)を作りなおす「箍屋(たがや)」等々、様々なリサイクル業があったそうです。古着屋もそうで4,000軒もあったらしいと書いてありました。ネットで調べるとすぐに出てきます。

前作でひょんなことから自殺しかけていたおそめを助け、家に連れてきたことから夫婦になったのでした。本作では、そのお人よしの喜十夫婦に捨吉という名前の子供が出来ます。といっても、店の前に捨てられていた子なのです。その顛末が一作目の「落ち葉踏み締める」で語られているのですが、この話は前作と少々趣も違うし、第一喜十が全く絡んでこないので、傾向が変わったのかと思いました。でも、この第一話を読み終えるとやはり喜十夫婦の物語です。ただ、冒頭から少々つらく哀しい展開なのです。

とはいえ、夫婦に子が出来たのは嬉しく、生活に張りも出てきます。特別に大きな事件が起きたり、謎めいたことが起きるわけではありません。相変わらず、北町奉行所隠密廻り同心の上遠野平蔵が持ち込む着物がらみの話は、喜十の手助けを必要とし、喜十はぶつぶつと文句を言いながらも上遠野のために歩き回ります。その姿が宇江佐真理という作家の手にかかると心を打つ上質の人情物語として出来上がっているのです。

登場人物の夫々に積み重ねられた歴史があることをそれとなく示しながら、登場人物を血の通った人間として描写する様は相変わらず見事なものです。そして、辛い思いを抱えて現在を生きている人に対して何とか救いの手を差し伸べようとする作者の心根が見えるようです。

「雪まろげ」では神隠しにあった子の話を聞き、「紅唐桟」では長崎から男を追って出てきた遊女の身の振り方を決めるのに呻吟し、更に「こぎん」「鬼」「再びの秋」という短編が続き、お人好しの喜十が文句を言いつつも、おそめの助けを借りながら上遠野平蔵の頼みをこなしていく姿が描かれていきます。

この口の悪い同心の上遠野平蔵との、持ち込まれた相談という名目の手助け依頼に文句を言いつつ乗っかる喜十との掛け合いも一興で、本書の魅力の一つになっています。

なにはともあれ、宇江佐真理の人情噺が展開される、読後感も爽やかな好短編集です。

小島 英記 天下一の剣 伊藤一刀斎

天下一の剣天下一の剣
(2008/12)
小島 英記

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今一つ、小説として中途半端にしか感じられず、決して面白い小説とはいえないものでした。 もともと、伊藤一刀斎という人物自体詳細がよく分かっていない人らしく、生年や生誕地など異説が多数存在します。

本書は伝承で伝わっているエピソードをつなぎ、小島英記という作家なりの伊藤一刀斎を作り上げようとしています。しかし、それが決して成功しているとは言えないのです。

大島で流人の子として生まれ、十五歳の六尺(180cm)豊かな若者として育っていた弥五郎は、山で知り合った山伏に師事し剣術を習う。しかし、その師匠が惨殺されたことからその仇を討ち、島を抜けることとなってしまう。何とか本土に辿り着いた弥五郎は、その後三島神社の矢田部宮司に拾われ、行儀作法も習い、有名な甕割刀をも手に入れるのだった。

この時点で物語はまだまだ五十頁にも達しておらずこの小説の冒頭部分に過ぎないのですが、少々好みと違う小説だと気づきました。どうも、読み手である私とこの小説との交流は上手くいかないのです。登場人物に深みを感じられず、歴史的事実の羅列としか感じられませんでした。

『一刀流口伝書』などで伝わる伝承に種々のエピソードが書かれているらしく、本書でも色々なエピソードが盛り込まれているのは判るのです。しかし、もう少しそうした伝承を練り上げ、物語として展開されるのを期待していたのですがかないませんでした。

ただ、立ち会いの場面は剣筋をきちんと示し、立ち会いの臨場感を感じられる表現になっており、この丁寧さが物語本体にも欲しいと思いつつ読んだものです。

小さな違和感、例えば伊藤一刀斎は自分こそが天下最強との自負を抱いていながら、師とも仰ぐ上泉伊勢守信綱との久しぶりの邂逅の時も旧交を温めるだけで別れています。最強を自負する以上は決着をつけたいと思う筈なのに、何故にこの二人は戦わないのか、また、後継者を選ぶために突然愛弟子たちに命懸けの戦いを命じるのですが、何故命がけの戦いを命じたのか、そうした理由、意味については何も語られていません。こうした点をこそ想像力で満たしてほしかったのです。

欠点ばかり挙げていて申し訳ないのですが、この作家の作品は多分読まないのではないかと思います。

木内 昇 地虫鳴く―新選組裏表録

地虫鳴く―新選組裏表録 (集英社文庫)地虫鳴く―新選組裏表録 (集英社文庫)
(2010/02/19)
木内 昇

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木内昇の『新選組 幕末の青嵐』に続く新選組を描いた作品です。『幕末の青嵐』も新しい視点で描かれた面白い小説でしたが、本書も中心となる登場人物の殆どはその名前を知らないであろう人物が配されていて実にユニークです。そうしたあまり知らない人物たちの行動を軸に、伊東甲子太郎が暗殺される「油小路事件」へ向けての新選組が描かれています。

まず、冒頭は史談会での阿部隆明という老人の証言の場面から始まります。この阿部という人物からまず知りません。この阿部が、高台寺党の一員である高野十郎から改名した阿部十郎として本編の主たる登場人物として重点的に描かれていきます。

勿論、高台寺党としては勿論伊東甲子太郎が中心であり、事実、伊東甲子太郎についてかなり書き込まれています、しかし心に残るのは伊東甲子太郎ではなくていつも土方に鬱屈を抱えているような伊東の実弟の三木三郎であり、卑屈でいながら自尊心は強い阿部十郎なのです。三木三郎に「屈折に支配されて振り回されている生き方」が気に入っている、と言われる阿部は全く自分の居場所を見失っています。

こうした、これまでその存在も知らない隊士たちが単に「新撰組隊士」とまとめられる存在では無く、血と肉を与えられて鬱屈を抱えている一個の人間として動き始めています。その夫々があるいは途を見出し、あるいはそのまま袋小路から出れなくなってしまいます。木内昇という作家は、こうした弱い人間たちの描き方が実に上手いのです。

またもう一人良く書き込まれている人物が、山崎烝と共に監察方として働く尾形俊太郎です。伊東一派との新選組脱退の話し合いの場に行く途中で、尾形は以前屯所の家主であった八木源之丞と出会うのですが、その折に思わずこみあげてくるものを感じ、涙を流してしまいます。こうしたシーンには実に作者の巧みさを感じます。まだ新選組という名称も無く、田舎浪士の集団に過ぎなかった頃から立派になった現在までを一瞬で回顧し、これから離別の場に臨むのです。様々の思いを込めた涙は見事です。

心象風景の描き方はインタビュアーとして培われたものでしょうか。この本の五年後に書かれる「漂砂のうたう」でも情景描写が素晴らしく、直木賞を受賞されます。

どうもこの作家は、自分の立ち位置を掴みそこねたような、心に屈託を抱える人間を描かせたら天下一品ですね。「櫛挽道守」のように強い女性も描いておられますが、自分を見失った弱い人間を描くときはより心に迫るような気がします。

『新選組 幕末の青嵐』には一歩及ばない気もしますが、個人の好みの問題でしょう。本作品の方が好みだ、という人もかなり居るのではないでしょうか。いずれにしても掘り出し物の一冊でした。

木内 昇 漂砂のうたう

漂砂のうたう (集英社文庫)漂砂のうたう (集英社文庫)
(2013/11/20)
木内 昇

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現在の上野駅の西側にある不忍池のその西側に不忍通りがあります。その道なりに北西の方に向かって上って行くと、言問通りとの交差点を越えたあたりからが本書の舞台となる根津遊郭があった場所だそうです。この根津という土地は近くに「谷中」という地名があることからも分かるように、「東の上野台と西の本郷台との間にはさまれた中央の谷筋」に位置し、湿気のたまる土地であったそうです。その土地の持つ湿っぽい、どことなくやるせない雰囲気をまとわせた遊郭を舞台として、鬱屈を抱えながら生きている主人公の生き様が描かれています。第144回直木賞を受賞した作品です。

時は明治10年、明治維新の騒動も落ち着いた頃、御家人の次男坊だった定九郎は根津遊郭で立番(客引)をやっていました。定九郎は御一新という時代の変動の中、御家人の次男坊という身分から逃げ根津に居ついたのですが、結局はそこに捉われているとの思いから脱却できずにいます。いつも此処ではないどこかへの飛躍を思っているのですが、御家人という身分からの逃亡と同じく、結局は現在の自分からの逃亡であることに次第に気付き始めるのです。

一言で言うと、実に不思議な小説です。読み始めは若干暗めの重い物語だと感じ、本を手に取るのにためらいを感じつつ読み進めていました。しかし、途中から少々雰囲気が変わってきます。妓夫太郎の龍造は強烈に「男」を感じさせる存在としてあり、反対に下働きの嘉吉は下衆(げす)な男として強烈で、小野菊は吉原にでもいそうな格調高い花魁として存在感が出てくるのです。

しかし、普通登場人物はそれなりに血肉を持った人間としての存在感があるのですが、どういう訳か本書の登場人物は定九郎とポン太を除き、その存在感をあまり感じません。強烈な「男」を感じさせる龍造すらも人物の背景は全く不明で、場面に必要な情報だけがあり、他の場面になるとその存在すら感じられないのです。でも、こうした印象は私個人だけのようで、他の人の書評を読んでも誰もこうした印象は書いていません。

ポン太はまた特別です。もしかしたら、ポン太の師匠である三遊亭圓朝の怪談話の登場人物がその場面に置かれているのではないか、そんな印象すらあります。全編を通して定九郎のそばに居るのですが、その実、見えているのは定九郎だけのような、不思議な存在です。

結局定九郎は、常にどこか違う場所の自分を思うのですが、結局は現実に立ち戻り、生簀の中の金魚に自らの身を重ねるのです。そして物語はクライマックスへと向かいます。

全編を通して、昔読んだ漫画でつげ義春の『ねじ式』を思い出してしまいました。物語の内容も表現形式も全く違うのですが、その水底に居るような倦怠感の漂う雰囲気が、どことなく共通しているのでしょう。この物語は作品の世界にのめり込む人と、嫌う人とにはっきりと分かれるような気がします。

蛇足ながら、ポン太という人は三遊亭圓朝の弟子として実在した人だそうです。

奥 浩哉 GANTZなSF映画論

GANTZなSF映画論 (集英社新書)GANTZなSF映画論 (集英社新書)
(2012/05/10)
奥 浩哉

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本書のタイトルにある「GANTZ」と聞いて何人の人が漫画のタイトルだと気付くでしょうか。もしかしたら映画化もされた作品なので私が思うよりも多いかもしれません。

人知れず地球上で普通に生活している「星人」と呼ばれる宇宙人と、一旦死んだけれどもGANTZと呼ばれる黒い玉により生き返らされ、闘うことを義務付けられた人達との戦いを描いた漫画なのですが、その作者が本書の著者である奥浩哉氏です。かなり丁寧な画を書かれる漫画家さんです。勿論SF漫画であり、宇宙人の襲来の場面などは実に丁寧に書き込まれている、かつて言われた「漫画」という言葉では表現しきれない「画」を書かれる人です。

その奥浩哉が今までに見たSF映画について書かれています。

「映画論」と銘打ってはありますが、どちらかと言うと奥浩哉の好きな映画の紹介、と言った方が良いのではないでしょうか。奥浩哉なりの映画についての思いを語ってあり、そ映画制作の視点や方法論にも若干ですが触れてあります。しかし、それはあくまで奥浩哉の「思い」であり「感想」であって、対象となる「SF映画」の意味や方法論についての意見を展開する、という意味での「論」にはなっていないと思います。

何より、紹介する映画の紹介は良いのですが、紹介する多数の映画の結末までを書いてあるのは頂けません。もしかしたら「映画論」と銘打ってあるのですからこういう展開も有りなのかもしれませんが、個人的には結末までも記載する必要性は感じられませんでした。

本書中には100本ほどの映画が記されていますが、私が見てない映画は数本しかありませんでした。従って、結末まで書かれていても個人的には問題は無いのですが、映画好きとしては気になります。また、ちょっとSF映画が好きな人ならここに挙げられている作品は大体見ているのではないかとも思いました。

「GANTZ」という大好きな漫画の作者の語る映画論、ということで期待して読んだ分ハードルが上がり過ぎたのかもしれません。薄い本で、一本の映画の紹介は簡単なものです。ですからわりと気楽に読める本ではあります。

デズモンド・バグリィ 高い砦

高い砦 (ハヤカワ文庫NV)高い砦 (ハヤカワ文庫NV)
(2006/01)
デズモンド バグリィ

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多分二十年振りほどに三度目を読み返しました。

本書を最初に読んだのは三十歳になる前くらいでしたので四十年以上も前になるのでしょうか。当時は冒険小説が花盛りで、今では名作と言われる作品が多数発表されていました。中でも本書は面白い冒険小説の一番手に挙がっていたと思います。ライアルの「深夜プラス1」、マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」や「荒鷲の要塞」、ヒギンズの「鷲は舞い降りた」など、挙げればきりはありません。なかでも本書は、名作の名を欲しいままにしたと言っても過言では無い作品です。

本書は特定の個人が主人公という訳ではなく、南アメリカの山中に墜落した飛行機に乗り合わせた乗客達が主人公となり活躍します。また戦いの方法も手作りの弓であったり、投石機であったりと、手近にあるもので武器を作り上げて銃や機関銃と相対するという、実に特異な物語なのです。

今回読み返してみて、当時はあれほど興奮して読んだ本なのに少々手応えが薄いと感じてしまいました。いや、今でも面白い作品なのです。手に汗握るシーンの連続であり、それなりに引き込まれて読んだのです。しかし、昔ほどの強烈な印象がありませんでした。

それは、冷戦真っ只中であった60年代当時(私が読んだ70年代もそう)と現代という時代背景の差があると思います。

本書の中心人物の一人である墜落した飛行機のパイロットであるティム・オハラは朝鮮戦争に従軍した経験を持ち、共産主義者に対して憎悪とでも言うべき感情を持つ人物です。また、武装ゲリラに襲われる原因となる人物も反共産主義勢力である民主化勢力の中心人物なのです。このような共産主義者に対する「反感」は今ではあまり実感できない感覚だと思われます。

もう一つの理由として、現代に至るまでの間に良質な冒険小説が次々と著されたことがあるのではないでしょうか。それまでのイギリスが中心だった冒険小説の世界に、「ダーク・ピット」シリーズのクライブ・カッスラーや「レッド・オクトーバーを追え」から始まる「ジャック・ライアンシリーズ」のトム・クランシーなどのアメリカの作家たちが参戦し、より洗練された冒険小説が発表されました。そうした、時代に即したスマートな冒険小説を読み慣れてきたということもあるかと思います。

ましてや今は我が日本にも重厚な冒険小説が現れているのです。北方謙三や志水辰夫、船戸与一と挙げればきりがありません。そうした良質の冒険小説に接してきたために、少々時代背景が古い本書のインパクトを薄いと感じてしまったのでしょう。

とはいえ、今や古典と言われる本作品は、少々時代遅れの感には目をつぶってもらうとして、それでも一度は読んでみた方がいい作品ではないでしょうか。スーパーヒーローでは無い、普通の人間が知恵と勇気を持って難関を乗り越えていくという、冒険小説の原点が読みとれると思います。

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このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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