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ラリイ・ニーヴン プロテクター


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本書も、直前に読んだ『プタヴの世界』と同じく、宇宙人が中心のSFです。今回は「幼生」「ブリーダー」「プロテクター」と成長の段階ごとに三種の異なる形態をとるパク人が登場します。子供の時期を過ぎるとブリーダーつまり繁殖者となり、子供を産み育て、繁殖能力がなくなると生命の樹の根を食べることでプロテクターになります。プロテクターになって始めて高度な知性と運動能力を得るのです。ただ、プロテクターは文字通り「守るもの」であって、一族の子供や近親者を保護することを生きる目的とし、その目的がなくなれば食欲を失い、死を迎えることになります。

プロテクターであるフスツポクは過去のパク人の軌跡をたどり、数万光年もの距離を越えて太陽系までやってきます。そこにベルター(小惑星帯の住人)であるブレナンが接触を図り、知らずに生命の樹の根を食べてしまい、プロテクター化してしまいます。フスツポクから様々な知識を授けられたブレナンは、人類を守るプロテクターとして宇宙を見張り続けます。そして、200年後・・・・。

『プタヴの世界』同様、本作品もスペースオペラタッチの物語でありながら、物語の根底が最先端科学知識の裏付けのもとに組み立てられているハードSFとして成立しています。

本作品も、やはり今一つ世界観に入れませんでした。『プタヴの世界』同様に、設定やストーリーそのものはまさにSFなのですが、何故かかつてのようにはのめり込めません。やはり文章そのものが素直に入ってこないのです。

そこで本書の翻訳者を見てみると中上守氏であり、小隅黎氏であはありませんでした。とくれば、やはり訳者の問題ではなくて作者であるニーヴンの文体そのものに違和感を覚えていると思った方が良さそうです。

近頃は日本の軽く読める小説に慣れ親しんでいるために、少々難解な表現などがあると入っていきにくくなっているのかもしれません。少々残念な気もしますが仕方ないでしょう。

ともあれ、個人的には若干の違和感を覚えてしまいましたが、ひと昔前のSF好きな人は殆ど読んでいる作品だと思います。それほどにファンも多い作品です。

ちなみに、本文庫の発行日時は昭和五十六年二月十五日三版発行、購入日は1982年10月20日(昭和57年)でした。こちらを先に読んでいたようです。

蛇足ですが、発行日が実際の出版日と一月ほどのずれがあるのは、第三種郵便の指定を受けている雑誌など、指定取り消しを恐れて早めに出版するので、それが慣行となり他の本でも一月ほどのずれが出てくることになったらしいです。

ラリイ・ニーヴン プタヴの世界


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直前に読んだ『へびつかい座ホットライン』はジョン・ヴァーリイの作りだした未来史である「八世界シリーズ」に属する作品でした。それに対し、本書はニーヴンによる未来史の「ノウンスペースシリーズ」に属する作品です。

「ノウンスペース」とは文字通り「既知の空域」という意味で、人類が進出した、若しくは探査が済んだ宇宙を意味します。このシリーズは殆どが短編として発表されているのですが、本書はこシリーズの最初の長編作品です。このほかの長編としては『地球からの贈り物』、『プロテクター』、そして最高の作品の一つと言われる『リングワールド』などがあります。

この「ノウンスペース」の特徴の一つとして、様々な宇宙人が登場することが挙げられます。本書でも、小柄ながらも一つ目で緑色の鱗の肌をしていて非常に醜悪な「スリント人」という宇宙人が登場します。

スリント人のクザノールは、自分の宇宙船の事故のため、宇宙服の停滞フィールドで時間を停止させた状態で救助を待つことにします。ところが、彼が目覚めたのは十五億年も経過した後の地球でした。そこではラリイ・グリーンバーグが宇宙人との接触を試みようとしていました。コンタクトの瞬間ラリイはクザノールの意識を取り込んでしまい、自身をスリント人だと思いこんでしまいます。しかし、脳は地球人であり他人を従わせる強い能力はありませんでした。そこで、自分の宇宙船を探しに出かけるのです。タイトルの「プタヴ」というのは、能力を失ったスリント人を意味します。

このシリーズはSFにはつきものの小道具が多彩なことでも知られています。本書にも出てくる「停滞フィールド」や、恒星間宇宙船として「バサード・ラムジェット」、パペッティア人の手による「絶対に壊れない宇宙船船の体」など多数あります。

ニーヴンはカリフォルニア大学で二年間数学を学んだり、他の大学で哲学、心理学を学んだりして突如SF作家になったそうです。ハードSF作家としての素地はその頃に培われたのでしょうか。

久しぶりの再読の印象は、少々読みにくく感じました。一つには昔の文庫本なので活字がとても小さく、今の大きな活字に慣れた年寄りにとっては結構負担がありました。

より本質的なこととしては、文章自体が読みにくく、一読しただけでは意味が伝わりにくい箇所がありました。本書の翻訳者は小隅黎氏です。この人の翻訳は他に『レンズマンシリーズ』やホーガンの著作などがあります。ホーガンの作品は先日再読したばかりですが、決して読みにくいことはなかったので(昔と訳者が変わっていることは無いと思います)、やはり、ニーヴンの文章そのものに癖があるのではないでしょうか。

解説を読んでいて思ったのですが、本シリーズはどこかスペースオペラタッチなのです。であるにも拘らずE・E・スミスらのような爽快感が今一つです。ハードSFとしての色合いが濃い小説なので、久しぶりに読んで戸惑ったのかもしれません。

しかし、物語のそのものは壮大なイマジネーションが駆使されていて、面白い作品であることは間違いありません。

本書も発行日時は昭和五十八年二月二十八日発行であり、私の購入日は1983年2月19日です。昭和五十八年は1983年ですから、殆ど発行されてすぐに購入しています。当時は本当によくSFを読んだものだとあらためて思います。

ジョン・ヴァーリイ へびつかい座ホットライン


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ふと思い立ち、しまいこんでいたSF関係の文庫本を引っ張り出しました。一番最初に目についたのが本書です。殆ど三十年ぶりくらいに読み返してみました。奥付を見ると昭和六十一年一月三十一日発行とあります。本書に記入しているメモによると、1986年2月12日に熊本紀伊国屋書店で購入していますから、出版されてすぐに購入したみたいですね。当時は購入した本の裏表紙に購入日付を書いたいたのですから感心していいものやら、不思議な気持ちです。

読んでみると、全く新鮮な感じでした。覚えていたのは「へびつかい座」から送られてきた種々の情報を利用して、各段の進化を遂げた人類の物語であり、人体の変形に対して何の忌避感も持たない世界であるということだけでしたが、その情報は物語の展開にはほとんど役に立たないと言ってもいいものでした。

遺伝子の改変を試みたために「人類の敵」として断罪されているリロは、死刑執行の間際にトイード元大統領の手によって救出されます。リロが死刑判決を受けた原因でもある「ライフカプセル」が欲しいというのです。引き換えに、リロはトイードの求めに応じて土星へと赴くことになったのですが、待ち構えていたのは勿論冒険なのですが、その先にあったのは「死」だったのです。

今回、本書を再読するにあたり何となく違和感を感じたのは、本書がSFの一つの思想でもあるサイバーパンクに連なる匂いを持っていたからだと思います。それまでのSFの否定としてのサイバーパンク運動は、どうしても反社会性を帯び、何よりも個人の内面への回帰を強く主張したものでした。それは、宇宙狭しと飛び回り、新鮮な驚きをもたらしてくれるはずだった私の好きなSFではなかったのです。最初に読んだウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」があまり面白いと思えず、拒否感を持ってしまったのが大きいのかもしれません。人間の肉体への改変、は当たり前であり、脳はネットワークに直接につながる世界、大きく言えばそうした世界なのです。ただ、映画『ブレードランナー』は好きな映画の一つではあります。

本書はそうした人間の肉体への改変を当然としている世界であり、主人公の死も普通の出来事の一つとして起きる世界です。生や死の捉え方が全く異なる世界なのでやはり取り付きにくいのも当たり前だと思います。

物語の進行につれてそうした世界観も判ってきましたし、読み終えてみると、かつてのようにどっぷりとこの小説にはまっていました。

この物語はヴァーリイの作り上げた未来史である「八世界」を舞台にしています。つまり、地球は2050年にエイリアンにより侵略され、水星、金星、月、火星、タイタン、オベロン、トリトン、冥王星という八つの衛星、惑星に居住するのみです。「八世界」とはこの人類世界の呼称なのです。ちなみに、このうちタイタン、オベロン、トリトンとは、それぞれに土星、天王星、海王星の衛星を言います。

終盤、リロは「へびつかい座ホットライン」と呼ばれている未知の知性に会うべく太陽系を離れることになるのですが、ここに来るまでに何度か死んでいます。そのたびにクローン処理により別なリロとして再生して新たな記憶のもとに行動し、やっとへびつかい座に向けて旅立ちます。その先に待ち構えていたものは、という流れになるのですが、最後はやはり時空を超えた展開が待ち構えています。

春日 太一 あかんやつら 東映京都撮影所血風録


半年近くも前に友人から読めと言われて貰った本。やっと読了しました。いやぁ~、何故今まで読まなかったと後悔することしきりです。ノンフィクションですが、対象が映画なので興味は尽きません。

もしかしたらルポルタージュとしてのノンフィクションを読むのは、若い頃に読んだ沢木耕太郎の『一瞬の夏』以来かもしれません。本の詳しい内容はもう覚えていませんが、カシアス内藤が再度プロボクシングのリングに戻り闘う姿を描いた作品でした。

あの本も著者の熱意も含めて面白かったのですが、本書は何と言っても私の好きな映画の世界が舞台ですから、対象をリアルに頭の中に描くことができます。感情移入どころか、その世界の中に入っている気持ちです。

東映の成り立ちには長門裕之、津川雅彦兄弟の叔父さんにあたるマキノ光雄という人が大きく関わり、五島慶太を総帥とする東急グループの小会社である東横映画株式会社がその前身である、などの話から始まります。「マキノ」という名前は、映画好きの人は知らない人はいないくらいに偉大な名前ですね。

東宝や大映といった大手の映画会社の後発である東映は、片岡千恵蔵、市川歌右衛門らのスターシステムを確立し、そのシステムから次世代のスターである中村錦之介、大川橋蔵らが輩出します。その後、スターシステムも下火となると任侠路線が生まれ、鶴田浩二、高倉健、藤純子らの時代になります。次いで来たのが実録路線であり、菅原文太らが大活躍するのです。

こうした名前は、私が小学校の頃から社会人になる間に見ていたスクリーンの中にいた人たちであり、私の世代の人の映画の歴史はこれらのスターたちと共に育ってきたのです。

本書はこうしたスターたちのエピソードも満載でそれだけでも読み応えがあります。しかし、本書の面白さはそれだけにとどまりません。これらのスターを生み出す東映という会社のシステムそのものから描き出しています。トップである社長の個性が東映の路線に大きく影響するのは勿論、名物プロデューサーらが張り切る姿が生き生きと描写されているのです。

任侠路線、実録ものともなるとその世界の人達との関わりも出てくるし、映画製作のスタッフ自身がその世界そのもののようになっていたなど、裏話には事欠きません。有名な話としては、『山口組三代目』という高倉健主演の映画を作るにあたり、本人の協力もあったらしく、当然のことながら警察と衝突し、このシリーズは二作で終わってしまいます。その代わりに東映が作ったのが『県警対組織暴力』という、警察とヤクザとの癒着が描かれた作品です。

でも、言えるのはそうして徹夜続きでも映画を作り続けてきたスタッフらは、大スターも会社の役員も、現場の使い走りに至るまで本当に映画が好きだということです。その現場の情熱が溢れんばかりに描かれているこの本の著者もまた映画が好きだということが伝わってきます。

この作者のルポに限らず、他の人の映画の本も読んでみたいと思わされた一冊でした。

和田 竜 村上海賊の娘



小説を読んで血が騒ぐ感覚を覚えたのは久しぶりのことです。本書はそれ程に面白い物語でした。この作者の文章は『のぼうの城』でも視覚的だと思いましたが、本書では更に映像的です。また、キャラクターの造形が上手く、彼らの台詞が直截に心に響いてきます。2014年本屋大賞受賞は納得です。

戦国時代も終わり近くの1568年(永禄11年)、信長の強引な政策は石山本願寺などの反発を招き、1570年(元亀元年)の姉川の戦いの後、石山本願寺および浅井・朝倉氏が挙兵します。この戦(いくさ)は将軍義昭の仲介で和睦をすることになるのですが、このときから織田信長と浄土真宗本願寺との間に、世に言う「石山合戦」が約十年もの間続くことになります。

本書は石山合戦の中でも三度目の大きな戦いであり、1576年(天正4年)に毛利氏と織田氏との間に起こった、「天王寺の戦い」と「第一次木津川口の戦い」を描いた小説で、それぞれの戦いがに上巻、下巻の山場を構成しています。

本書の魅力は、生き生きとしているその登場人物の造形でしょうか。まずは本書の主人公である海賊村上武吉(たけよし)の娘、景(きょう)が「稀代の荒者」で「大層な醜女」なのですが、しかし純粋なのです。彼女が全編にわたっての鍵となります。

この景を見守る各武将が生き生きとしています。宣教師のフロイスに「日本の海賊の最大なる者」と言われたのが、景の父村上武吉で「能島(のしま)村上」の当主です。そして、景の兄の元吉(もとよし)、弟の景親(かげちか)らがいて、一方、敵役である真鍋七五三兵衛(まなべしめのひょうえ)や、鉄砲集団雑賀党の首領である鈴木孫市(すずきまごいち)らが重要な位置にいます。

他にも個性的な武将が登場し、単なる命知らずではなく、男の琴線をくすぐる存在として描かれています。それは本書の中で泉州侍について語っている言葉ではありますが、「常に俳味を持って戦うのだ。強敵に立ち向かう阿呆の理で戦うのだ。」という言葉に表れているでしょう。「俳味」とは「軽妙・洒脱な味わい」と辞書にはあります。打算抜きに、命のやり取りを楽しむ男どもなのです。

著者はインタビューの中で、当時の人間の「命についての考え方」を現代の人間の感覚でとらえてはいけないと言っています。そうしないと「時代の空気が見えてこない」と言うのです。そして「当時の空気」として「恐怖に対して鈍感だった」と言っています。

実際、本書の登場人物は見栄でもなく文字通りに「笑いながら」死んでいくのです。この点は読みながらも、少々やり過ぎだろう、と思わないでもなかったのですが、そこはあえて書かれていたのだと、このインタビューを読んで思いました。

本書の最大の魅力は、綿密な資料の読み込みに裏付けられたリアリティーでしょう。資料の読み込みだけで一年を費やしているそうで、多くの細かな場面描写に資料の裏付けを示してあります。それは人物の性格にまで至っており、読み手は実際書かれている事柄があったのではないかと思わせられてしまいます。逆にこの資料の提示が邪魔だという声も散見しました。この点は読み手の好みにもかかわってくるのでしょうが、本屋大賞を受賞している事実はこの手法が受け入れられているということではないでしょうか。少なくとも私は実に楽しく読むことができました。

確かに、武将同士が海戦のさ中に異なる船同士でまるで隣にいるかのように話し合ったりと、細かな点を言えば首をひねる個所も多くあるのです。しかし、そうした疑問点を持ちつつもこの筆力には圧倒されてしまった、というのが正直なところでしょうか。

久しぶりに単なる面白さを越えた、読み応えのある小説でした。

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Author:siro
このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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