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田牧 大和 翔ぶ梅 濱次お役者双六 三ます目


相変わらず、舞台裏のかしましさが伝わってくるような、小気味のいい物語です。今回は、趣を変えて、短編三作により成っています。

「とちり蕎麦」 二枚目立役の野上紀十郎が舞台上でとちった。そのため、詫びの意味で「とちり蕎麦」を皆にふるまう羽目になる。紀十郎は何故にしくじりを犯したか、が大きな謎としてあります。そして、何故に紀十郎は森田座から離れた場所にある「峰屋」を「とちり蕎麦」として使うのかが、ほっこりとした人情噺として語られます。

「縁(よすが)」 江戸の歌舞伎の芝居小屋は、「中村座」「市村座」そして本書の主人公である梅村濱次のいる「森田座」を、江戸三座と言っていました。今度、そのひとつ「市村座」が、今大坂で飛ぶ鳥を落とす勢いの女形、香川富助を呼ぶという話がおき、それに対抗して「中村座」が対抗措置を取ろうとして濱次をひき抜こうとします。この話に、濱次は勿論、師匠の仙雀や座元の勘弥、ひいきの茶屋の女将のお好らが振り回されるのです。

濱次を中心とした人間模様が、芝居小屋の小粋な世界を舞台に繰り広げられるのですが、その世界観がうまく確立されていて、読み応えがあります。肩の凝らない読み易い文章でありながら、読み手をすんなりと納得させるのですから見事です。

「翔ぶ梅」 濱次の師匠である有島仙雀と、仙雀の兄弟子で稀代の名女形と言われ、本書の影の主人公的立ち位置にいる有島香風の物語です。いつもは濱次や勘弥を何かとけむに巻いている仙雀ですが、本物語ではまだ若手であり、香風に振り回されています。そんな二人の行う人助けを描きながら、本シリーズの最初のほうで濱次によって演じられる舞踏劇「飛ぶ梅」の成り立ちが語られるのです。

シリーズものとしては珍しく、巻を重ねるごとに物語の世界が明確になっていき、面白さが増しているような印象がします。いえ、面白くなっていると言えます。

まだまだシリーズは続いています。続きを読むのが楽しみな作家さんです。

中村 彰彦 新選組秘帖


新選組の、他の作者の作品ではまず描かれることもない、初めて聞くような隊員らを主人公とする、新しい切り口の新選組の物語です。

「輪違屋の客」 主人公の名は加納惣三郎といいますが、これまでこの人物の存在は知りませんでした。しかし、大島渚監督の映画『御法度』の原作ともなった、司馬遼太郎の短編集『新選組血風録』の中の「前髪の惣三郎」でも登場するそうです。作品はどうも、今一つ入り込めませんでした。

「密偵きたる」 この章の主人公、松山幾之介も知りませんでした。「足利三将軍梟首事件」の犯人の探索のために、岡山に送り込まれた松山幾之介の顛末が描かれています。新選組の記録には残っていないそうで、しかしながら松山幾之助を殺害した犯人の氏名も判っているというのですから、理由が分かりません。

「ふらつき愛之助」 伊藤源助こと加藤愛之助の、成り行きに任せた人生の物語です。当初、新選組に入隊希望者として現れますが、永倉新八とのやり取りの末に入隊を断られます。その後薩摩藩邸に食客として潜り込むことに成功する。その後国事に奔走する志士として活躍するのだが・・・。ユーモラスに、しかしどことなく哀しみの漂う物語です。

「近藤勇を撃った男」 近藤勇が高台寺党の残党により銃撃を受けた事件は有名ですが、その事件の銃撃犯が本章の主人公富山弥兵衛です。著者の『あとがき』によると、「かれの凄まじい最後は、だれかがきちんと書いておくべきだ、と考えた」のだそうです。

「忠助の赤いふんどし」 近藤勇、土方歳三の馬丁であったという忠助の物語。原稿用紙10枚の、「コントとして楽しく書いた」作品。

「巨体倒るとも」 島田魁という名前は新選組の監察として聞いてはいましたが、その生涯は全く知りませんでした。明治維新後も生きのびた新撰組隊士は数人いますが、島田魁もその一人です。著者の長編『いつの日か還る』の一部として組み入れられていると、あとがきにありました。

「五稜郭の夕日」 土方歳三が五稜郭で散る際に、若き隊士に土方の故郷までの言伝を頼んだことは知っていました。私が知らなかったその若き隊士が、本編の主人公市村鉄之助です。市村鉄之助については単に、この伝言役としか理解していませんでしたが、その後の市村鉄之助について、少しですが書かれています。当時の若者の心情を思いやると、切なくなりますね。

「明治四年黒谷の私闘」 著者のあとがきには、橋本皆助改め水野八郎が「何者かに腹部を刺されて死亡したことは事実です。」とありますが、ネットで見るとこの点には異論があり、病死説、暗殺説など色々あるようです。ともあれ、水野八郎の死亡の原因を、これまた種々の説がある原田左之助生存説と絡めて構築した物語となっています。

「明治新撰組」 相馬主計のち相馬主殿と称しています。箱館戦争で土方亡き後、恭順書に隊長として書名をしたところから、新選組最後の隊長と呼ばれたそうです。この人は最後は、切腹により亡くなられたことは事実のようですが、そのいきさつが全く不明であり、そこを作者が創作したのが本作品だとありました。

他の小説では名前すら出てこないような人々を中心に据えて、それらの人々そのものを描き出そうとした試みは斬新です。

当初は資料を駆使した、結構細かな文章表現に何となくの違和感を覚え、読みにくさを感じていたのです。しかし、次第にこの作者の雰囲気に慣れたのでしょうか、読み応えを感じるようになりました。新選組の物語は好きな人にはたまらない一冊だと思います。この作家を知らなかった私ですが、他の作品も読んでみようと思います。

なお、この本を紹介頂いたのは新選組専門のサイト「新選組の本を読む ~誠の栞~」の東屋梢風さんであり、この文章を書くにあたり参考にさせて頂きました。有難うございました。

結城 充考 クロム・ジョウ


本書の惹句には「疾走感120%!ノンストップ・ハードボイルド・ミステリー。」という文句があります。残念ながら、少々オーバーな惹句ではありました。

ジョウは、友人である佐藤翡翠(サトウヒスイ)の頼みで、数日間の住い(隠れ家)を探してやったお礼にと、小さな円筒形のライターを貰う。しかし、何か裏があり、それを隠していると感じたジョウは、ヒスイの言葉の裏を探るべく動き始める。と、貰ったライターが実は記憶装置であることに気づく。その後、ヒスイから聞かされていた男が殺されるところに遭遇するのだった。

以前読んだ「クロハ・シリーズ」でもそうでしたが、どこかサイバーパンクの雰囲気を持った背景設定が為されています。脳と機械の融合などという舞台設定があるわけではありませんし、篠突く雨が降っている訳でもないのですが、決して抜けるような青空が広がっている風景は想像できません。つまりは、モノトーンの風景の中で、薄暗いビルの谷間を這いずりまわっているイメージなのです。

タイトルにもなっている17歳の少女ジョウが主人公です。その子が誰にも好かれるヒスイという女の子からの頼みごとを受け入れてしまったことから、正体不明の敵から追われ、逃げまくるのです。

17歳という少女が、これまで生きのびてきた知恵を働かせ、何とか生きのびる道を探り出そうとするのです。相手が小娘だとなめてかかるそのことが逆に自分の強みだと自覚し、必死で生き抜こうとするジョウの姿は、それなりに魅力的であり、感情移入の対象になり得ます。

しかし、アクション小説でもなく、小娘なりの弱い腕力を助けてくれる人物が登場する訳でもないその設定は、どこか中途半端に思ってしまいました。クロハシリーズの時に感じた主人公の力強さは無く、その印象は作品自体の印象となってしまったのです。

当初思ったこの作家の作品にしては、面白いのですが、期待していた程ではないという、少々残念な物語でした。

長岡 弘樹 群青のタンデム


本書も少し前に読んだこの作家の「教場」と同じく、少々毛色の変わった警察小説で、第一話の「声色」から第八話の「残心(後篇)」までの連作短編集です。でも、実際は各話の間には、全体で一つの長編と言ってもいい程のつながりがあります。

警察学校での同期である戸柏耕史と陶山史香は、卒業後も互いに勤務成績を争っていて、最終話までそれらしき関係が続いて行きます。各話それぞれで小さな事件があり、それなりの解決が為されていくのですが、普通の警察小説とは異なり、例えば殺人事件のような大きな事件は起きません。自転車泥棒やストーカーなどの、日々の生活の中で起きうる“小さな”事件を、あちこちに散りばめられた伏線をもとに各話毎に解決していくのです。

ネットでこの作家のことを調べていたら、「普通の人たちを動かしてどこまで面白いことが書けるか、ということに挑戦している気がします。」という、著者の言葉がありました。言われてみれば、前作の「教場」も、同じような上手く散らされている伏線を回収して、各話のオチにしている構成でした。作者の言葉なのですから、他の作品も似たような構成なのでしょう。

小さな、けれども丁寧に考えられたトリックをはさみながら、ライバルとしての二人が、話が進むごとに成長し、階級も変わっていきます。何かにつけ、お互いの存在を思いやり、助けながら生きているのです。

この二人の他に登場してくる人物も魅力的な人達が並んでいます。登場時は十三、四歳位だった新条薫や、登場時は刑事課の巡査部長であった布施など、魅力的であると同時に、物語の進行上も重要な役割を担っているのです。

以上書いてきたように、本書は散りばめられた伏線と練られたトリック、テンポのいい文章、と面白い小説の要素は持っている作品です。ただ、残念なのは少々作者の独りよがりな点が見えることです。個別の文章の中でもそうなのですが、何よりも、貼られた伏線に基づく結末の経過及び理由付けが、一読しただけでは判りにくいのです。

一連の行動の結末をきちんと書かないままに場面が変わり、そこで、結末のニュアンスだけが語られています。うまくいけば余韻を残す手法なのでしょうが、少しのずれが読みにくさを招いてしまいます。本書は、その悪い方へ転んでいるのです。多くのレビューで若干の読みにくさを指摘されているので、これは私だけの感想ではないようです。

とはいえ、その少々の読みにくさを我慢すれば、個人的にはそれなりに面白い小説だとは思っています。とくに、個別の伏線の仕掛けの細やかさ、意外さは引き込まれます。そして、読後の大きな仕掛けが待ち構えていることも、まあ、言ってもネタバレにはならないでしょう。

新しい観点を持った警察小説の書き手として大いに期待できる作家さんだと思っています。

隆 慶一郎 吉原御免状


伝奇時代小説の見本のような小説でした。

松永誠一郎は、高貴な血を引く赤子ゆえに殺されそうなところを、宮本武蔵に助けられ、肥後熊本の山の中で武蔵の手により育てられる。長じた誠一郎は、武蔵亡き後江戸の吉原にその姿を現し、なんとか正体不明の老人により吉原に迎え入れられた。しかし、こんどは「神君御免状」なるものを探す、柳生の一団に襲われるのだった。

吉原の成り立ちに絡む、徳川幕府の存続にかかわる秘密が記された書き物をめぐり、吉原と裏柳生とが戦う物語、というその舞台設定だけでも胸が躍ります。そうした活力あふれるこの作品が、隆慶一郎という作家の、61歳にしてのデビュー作だといいますから驚きです。

本書はその物語自体の面白さもさることながら、随所に挟まれる豆知識、及び様々な資料、その解釈、その説明がまた面白いのです。伝奇小説とはかくあるべしという、お手本のような小説です。

例えば、小さな知識ですが、時代小説で「吉原」が出ると必ず聞く言葉のひとつに「清掻(すががき)」があります。これまでは、三味線の曲名だと思っていたのですが、「古くは琵琶を掻き鳴らすことだったが・・・・弦楽器のみを奏するのを、すべて、すががき、という」というのだそうです。また「後朝(きぬぎぬ)の別れ」という言葉も、その源は平安時代の通い婚にまで遡ることなど、トリビア的知識を織り交ぜながら、一見荒唐無稽な物語が展開します。

本書の魅力の別な側面として、徳川家康の影武者説が語られています。この設定が今度は『影武者徳川家康』として別の文庫本三巻の物語として仕上げられているのです。つまりは本書は、隆慶一郎ワールドの一環をなす物語でもあります。個人的には先にこの『影武者徳川家康』を読んでいたので、本書の背景が更に深く沁みたのかもしれません。

本書ではまた、徳川家忠に仕えていたと言われる天海僧正は明智光秀だという説を取り入れていたり、「道々の輩(ともがら)」「傀儡子(くぐつ)一族」といった、日本国の表舞台には決して出てこない、しかし裏面史を語る上では必ずと言っていい程に語られる自由の民が中心となっていたりと、読み手の心をしっかりととらえる仕掛けが随所に施されているのです。

また、敵役は裏柳生であり、その頭領としての柳生列堂(義仙)が設定されています。

蛇足になりますが、裏柳生と言えば五味康祐や柴田錬三郎、それに山田風太郎といった作家たちでしょう。でも私にとっては、小池一夫原作で小島剛夕画の漫画『子連れ狼』なのです。細かなエピソードもそうですが、ラストの列堂の姿は印象的でした。

本書はこれらの作家たちとは異なる視点で、吉原を中心に描いた新しい物語です。佐伯泰英の『吉原裏同心』もまた吉原を中心に描いた作品ではありますが、こちらは痛快時代小説であり、伝奇小説の香りはありませんし、スケールにおいて本書とはまた異なる物語です。

本書の続編として『かくれさと苦界行』が出ています。早速借りてこようと思います。

更に蛇足を記せば、松永誠一郎の思い出の中に、肥後ノ国の金峰山という地名が出て来たのは嬉しい驚きでした。武蔵の名が出る以上は、武蔵が修行をしたという金峰山が出てくるのは当たり前のことですが、私にとっては、日々の暮らしの中で目にする山なので、例え地名だけであっても、やはり嬉しくなってしまいます。

逢坂 剛 百舌の叫ぶ夜


如何にもこの作家らしい、サスペンスフルな冒険小説です。私は、本書ほかを原作としてテレビドラマ化された、「MOZU」という番組を見たことからこの作家の作品を読むようになったのですが、本書は期待に違わない結果でした。

能登半島の突端にある孤狼岬で発見された記憶喪失の男は、妹と名乗る女によって兄の新谷和彦であると確認された。東京新宿では過激派集団による爆弾事件が発生、倉木尚武警部の妻が巻きぞえとなり死亡。そして豊明興業のテロリストと思われる新谷を尾行していた明星美希部長刑事は…。錯綜した人間関係の中で巻き起こる男たちの宿命の対決。その背後に隠された恐るべき陰謀。迫真のサスペンス長編。(「BOOK」データベースより)

テレビドラマで感じていた暗いトーンは、テレビ版用のものではなく、本書自体がまさに暗い、というよりも低いトーンで貫かれている小説でした。

本書を読んでいて困ったこと(と言っていいのか、もしかしたら良かったことかもしれないこと)は、警視庁公安部の倉木尚武や公安第二課捜査官の明星美希、それに警視庁査一課の大杉良太という主要人物が、それぞれ西島秀俊、真木よう子、香川照之という役者さんのイメージで固定されていたことです。でも、このイメージは決して邪魔にはなりませんでした。それだけ、テレビドラマの作り方が上手かったということでしょう。

妻がテロリストの持っていた爆弾の爆発に巻き込まれて死んでしまい、その妻の死にまつわる謎を解明していこうとする公安刑事。また、この公安刑事の暴走とも言える捜査の一方で、新谷和彦という謎の男の動きも、別な時間軸で語られていていきます。こうした構成は、唐木という強烈な個性を持った人物を中心とする登場人物たちの、それぞれの個人的な魅力と相まって、読み手の興味をかきたてます。

つまり、妻の死やテロリスト新谷にまつわる謎が時間軸を操作することによりミステリアスに展開され、更に登場人物たちの魅力が輝いていて、サスペンスフルな物語として、冒険小説の醍醐味を十二分に味わうことができるのです。

本書を読んでいて一点だけ挙げるとすれば、それは今述べた、章により時制が異なる点でしょうか。時制の変化に気づかず、当初は若干の混乱があったのです。ところが、読み終えてみると、著者による後記に、「各章の数字見出しの位置が、上下している点に、どうか留意して頂きたい。」「時制の変化を示したつもりである。」という一文がありました。最初からこの点に気づけば、とも思いましたが、時制の変化にはすぐに気付いたのですから、あまり差は無かったとも思えます。何より、この時間軸の操作がよりよい効果を挙げていると思え、単に読み手の力量不足というだけのようです。

同じ著者の、『カディスの赤い星』で見られた、冗舌とも言える主人公のおしゃべりや、気のきいた会話は本作ではあまりみられません。それとは全く異なったと言ってもいい、骨太の物語として仕上がっています。

この点は、著者本人の言葉として、「実は倉木の心理描写は一切していないんです。彼が何を考えているかは、彼の仕草や表情、あるいは、大杉や美希といった周囲の人々に語らせることでじわじわと伝わるように書いている。」という文章もあります。作家の船戸与一が、本書の解説で「乾いているようで湿っている風。湿っているようで乾いている風。それが読了と共に胸の裡を吹き抜ける。」と書いていますが、こうした著者の仕掛けも含めて感じとった事なのでしょう。

つまりは、客観的な描写なのだけれども、登場人物の内面、主観を削り出しているような、技術としてのうまさが現れた小説なのでしょうか。

三年半をかけて書いたというこの小説は、やはり続編を読みたいし、読まねばなりません。

あさの あつこ 待ってる


あさのあつこという作家は『バッテリー』というベストセラーの著者、という認識しかありませんでした。『バッテリー』も読んだことは無く、何の知識も無くて本書を読んだことになります。本書は一言で言うと江戸の下町の『橘屋』という老舗の料理茶屋をめぐる人情噺というにつきます。「待ってる」、「小さな背中」、「仄明り」、「残雪の頃に」、「桜、時雨る」、「雀色時の風」、「残り葉」の七編からなる連作短編集です。

「待ってる」は、『橘屋』の下働きのおふくの物語です。「貧困も空腹も茶飯の事であり、身体の一部のように、一生背負ってあるくしかない」生活を送っていたおふくは、母親お千佳の愛情をうけ幸せに暮らしていました。しかし、父親が職を失い、貧乏の末に『橘屋』に奉公に出ることになります。おふくは藪入りには家族の待つ家に帰ることを楽しみにしていますが、その家族も行方不明になってしまいます。おふくは『橘屋』の女中頭のお多代の、おっかさんを信じるのも親孝行だという言葉をうけ、「おっかさんやおとっつぁんを」待ってみようと思うのです。

「小さな背中」は、『橘屋』の仲居のおみつの物語です。亭主の幸吉は、腕は良いものを持っているのだけれど、生来の怠惰な性格が災いをしています。二人の間にできたおつるを四歳のときに亡くして以来、長屋の隣の家のおしのという女の子を可愛がっていました。ですが・・・。

「仄明り」は、『橘屋』の臨時雇いの下働きとして働いたことのあるお敬の物語。「残雪の頃に」も仲居のおみつの、「桜、時雨る」は、板場の下働きの小僧の物語です。

このように、どの話も『橘屋』の下働きの女中や、小僧、仲居の物語です。貧乏という環境は皆同じで、その中で夫や恋人に苦労をさせられているのです。

勿論、人情小説として心にしみる物語でした。しかし、どことなく今一歩深いところに入っていけない、もどかしさを感じる短編集でもありました。登場人物のそれぞれが、様々な苦労を背負いつつも、未来に向かい一生懸命に生きていこうとしています。そして、作者もまた登場人物のその姿を、一生懸命に描き出そうとしている、という印象は受けます。しかし、個々の物語の中心となる人物の内面が、若干の感傷的な文章で説明してあり、加えて、その説明が若干冗長だと感じたのです。

感情過多と言ってもいいその印象が、全体を通してまとわりついています。

しかし、物語全体を通してのまとめ役的存在としての女中頭のお多代の存在は良いですね。少々人間として出来過ぎの感はありますが、その点は無視できます。本書全体を俯瞰する存在としてお多代がいて、最終的にはお多代が、そして、おふくが物語の中心となって収斂していくその構成は、特別なものではないのかもしれないけれども、終盤になって物語としての面白さを感じることに繋がったと思います。

もともと物語の作り方が上手い人なのだろうと思わせられる作品でした。ただ、もう少し物語の湿度を抑えてもらえればとの思いを持った作品でもありました。

恒川 光太郎 金色機械


この作家の作品は始めて読みました。調べて見ると、『夜市』という作品で角川ホラー大賞を受賞されているようです。でも、本書でもホラー色はありません。というより、ちょっとダークな時代SFファンタジーですね。

とある大遊郭「舞柳(ぶりゅう)」にある「しなの屋」の楼主である熊悟朗と新しく店に入る遊女との面談の場面から始まる。その遊女の名は遥香といった。熊悟朗には心眼、つまり、嘘、隠しごとを火花と感じ、殺意を黒い霧と認識する能力があった。一方新しい遊女の遥香にも、命あるものを触るだけでその命を奪う力があったのだ。遥香は熊悟朗に自分の過去を語り始める。この二人の過去は意外なところで交錯するのだった。

恒川光太郎(つねかわこうたろう)という人は、「幻想的、民話的な作風で読者を魅了してきた」作家だそうです。確かに、本書も民話的香りが感じられます。

本書で最初に語られるべきは、タイトルにもなっている「金色機械」でしょう。村人が恐れ敬う、月からやって来た神様であり、かつて遥香が出会った神様「金色様」なのです。この簡単に言ってしまえば、語られることのない未知の存在によって作られたロボットである「金色機械」を中心に話は動くことになります。

章が変わると熊悟朗の過去の物語も語られます。父親に殺されそうになるところをその能力で察知し逃げ出したコヘ。山賊に助けられ、ならず者の巣窟「極楽園」、別名「鬼御殿」へと連れて行かれ、熊悟朗と名前を変えるのです。そこには遊女たちもおり、紅葉と呼ばれる娘もいました。更には、口を聞くことのできる黄金の仏像もあったのです。

当初、全くの前提知識無しに本書を読んだときには、若干章毎の時代設定がつかめず、物語の流れを見失いがちになりました。遥香の物語と熊悟朗の物語が、時代を違えて語られるので戸惑ったのです。しかし、一旦本書の構成が理解できると、物語に引き込まれてしまいました。

遥香は自分の母親を殺した犯人を探そうとしています。そして、その探索は熊悟朗の過去へと結びついて行くのです。この犯人探しというミステリーとしての要素もあり、それなりの興味を持って読み進めます。でも、なによりも「金色機械」の存在を中心とした物語の流れが、一点にむかって集約していく様が面白いのです。

「人間にとって善とは何か、悪とは何か」という本書の帯に書いてる惹句が、本書の序盤からはっきりと意味を持って読者に迫ってきます。遥香の行ってきた安楽死の話もそうですし、熊悟朗を拾った山賊の夜隼(よはや)が、「正しいとは何か」なぞわからん、と言い、「だが悪とは何かといえば」「幕府も藩も何もかもが悪」「我らは我らの流儀で生きるしかない。」と言い切ることもそうです。更には「これまでも作品の中で大きなテーマとして毎回死生観について描いてきましたが、今回ほど色濃くなったことはないでしょう。」と著者自身が語るように、物語の全編で「生きる」ことについて問われているようです。

とはいえ、先にも書いたように、SFファンタジーであり、ミステリー色を持ったこの物語は、単純に”楽しめる”小説でもあります。

スター・ウォーズの人型ロボットC-3POがモデルだという著者のイメージを持つことは無かったのですが、「金色機械」の生涯としても読めそうです。

伊坂 幸太郎 終末のフール


全部で八編の短編からなる、連作、と言ってもよさそうな短編集です。というのも、各短編そのものは独立していながら、舞台は仙台北部の団地「ヒルズタウン」の住民たちの物語として、共通の世界を持ち、また相互に夫々の物語の主人公が登場したりするからです。

非常に読み易い小説でした。そして、まずは状況設定が上手いと思いました。

つまり、三年後には小惑星の衝突により地球は滅亡します。すなわち、登場人物全員の命は後三年しかありません。でもその事実が分かってから既に五年が過ぎているので、自暴自棄になった人々のパニックも収まりを見せ、それなりの平穏を取り戻した社会です。ということは、通常の平穏な日常の中で、皆の三年後の死が確実な場合の、普通の人達の生き様はどのようなものか、が語られるのです。

一番最初の「終末のフール」では、全く普通の夫婦と娘の関係が語られます。父親は母親に、何かにつけ「馬鹿」と言い続けています。娘はそれに反発し、家を出て行きました。その娘が数年振りに帰ってくるのです。この父親は息子に対しても「馬鹿」、「出来そこない」と言い続けていました。息子はそのことが原因なのか、地下鉄に飛び込んで10年前に死亡しています。娘が帰ってくるのは、息子の葬儀の二カ月前に出て行ってからは、葬儀の時に顔を見せたとき以来なのです。そして、娘は帰ってきました。この親子の間ではどのような会話が交わされるのでしょう。

理由は重いですが、普通の家庭の親子喧嘩です。それが、みんなあと三年の命しか無い中で、久しぶりの親子の会話が交わされます。そこで繰り広げられるものの決定打は、馬鹿と言い続けられてきた母親の一言でした。

こう書いてくると重く暗い話のようですが、決して重くも暗くもないホームドラマです。この物語に限って言えば、三年の猶予期間の設定はあまり意味がないように思いました。でも、よく読んでみると、そうではないようです。最後の娘の言葉「三年もある」という言葉を父親は重く受け止めます。そして、物語は小さな感動を残してくれました。その感動は、みんなの命についての三年という限定の中での、母親の明るさに対する敬意でもあります。

この次の「太陽のシール」は不妊で悩んでいた夫婦が、三年という期間を区切らられた現在になって、奇跡的に妊娠する夫婦の話です。この夫婦の設定がまた上手いと感心してしまいました。

「選択できるというのは、むしら、つらいことだと思う。」と始まるこの短編は、何事にも優柔不断な男に、未来の無い世界でやっと授かった赤ちゃんを産んでいいものなのか、という選択を迫るのです。そして、優柔不断な男を責めるでもなく、そっと寄り添う妻。奇妙な夫婦の物語です。

このような爽やかともとれる話が八編詰まった短編集です。そして、この作家の物語の作り方のうまさが目立つ作品集です。「今日を生きることの意味を知る物語。」とは惹句に書いてある文句ですが、まさにその通りの物語集でした。

夏川 草介 神様のカルテ 3


内科医の栗原一止(くりはらいちと)の勤める本庄病院は、信州松本の地域医療の一端を担う、基幹病院の一つであり、24時間365日、悲鳴と怒号と叱声の中にあった。そのなかで我が主人公栗原一止は、変わらずに漱石を愛読し、そして、ただひたすらに患者と向き合う日々を送っていた。

本作品は「夏祭り」「秋時雨」「冬銀河」「大晦日」「宴」という、全部で五つの章建てとなっています。その前後には、一止が珍しく得ることの出来たささやかな、しかしいつもの通りすぐに破られる休息の時間を描いたプロローグがあり、最後は、まさに貴重な五日間の連休を得た一止が、久しぶりに帰ってきた学士さんと共にコーヒーを喫しようとするエピローグで終わっています。そして、この物語の始まりにも終わりにも、一止の隣には愛妻のハルがいるのです。この構成は本書の内容を端的に表しているとも言えます。つまり、本作品は一止の転機の物語であると同時に、思いやりにあふれた夫婦の物語でもある、と思うのです。

本作は、今までの作品の中で一番内容が充実しているように感じました。これまでの作品と同じく、命の危険がある患者さんとの直接的な関わりの中で、医療と人の命との問題を考える側面も確かにあります。しかし、全体を貫いているのは、勿論医療の素人である私達には、考える余地すらないと思われるテーマです。詳しくは本書を読んで頂くしかないのですが、端的に言うと、患者のために自らの時間を削ってでも尽くす医者が否定される理由があるかということです。

その問題は、新しく本庄病院の消化器内科にやってきた小幡奈美先生によって一止に突きつけられます。消化器内科部長である大狸先生の教え子であり、十二年目のベテラン医師である小幡先生が一止に対し言った言葉、それが本書の惹句にも書いてある、「自己満足で患者のそばにいるなんて、信じられない偽善者よ」という言葉であり、本書で一止に突きつけられた問題なのです。この問題は、本シリーズを貫いているテーマとも言えるのでしょう。というのも本シリーズの一作目で大学病院からの誘いを一度は断っている一止なのです。「医師という職責の重さ」を真摯に見つめる一止の姿がそこにはあります。

このシリーズの魅力は、まずは一止の患者に対する真摯な態度にあると思うのですが、それと共に登場人物が皆善人であることも大きいかもしれません。更には、全編を貫く少々古臭い言い廻しによって四季折々の風景が語られ、落ち着いた雰囲気を醸し出していることと共に、全編にわたって展開される会話の魅力が大きいと思います。病院内での切れ者の看護師同士、患者さんたちとの会話もそうです。どれもウィットにとんでいるとともに愛情にあふれているのです。

だからこそ、第二章の終わりで交わされる患者の榊原さんとの会話でも感動を覚えるのだと思います。普通は会話の最中に『ジャン・クリストフ』など引用されても、周りは引くばかりでしょう。確かに、高尚な文学を引用しても違和感のない登場人物という設定もうまいのでしょうが、何よりも、誰しもが持っている他者へのいたわりの感情が上手く表現されているからではないでしょうか。

冒頭に書いたように、本書では随所で記される、ハルとの心の通い合いが見事です。本書自体が浮世離れしていると言えばそれまでなのですが、それでも夫婦のあり方として理想的でしょう。こうした人と人とのあたたかな繋がりが全編を覆っています。読後感の爽やかなこと。このような物語は心が洗われます。

本書では一止に一大転機が訪れます。まさかシリーズが終わることは無いと思うのですが、終わってもおかしくない幕切れなのです。このシリーズが更に続くことを願うばかりです。

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siro

Author:siro
このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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