逢坂 剛 裏切りの日日


警視庁公安部特務一課係長の桂田渉は右翼の大物の遠山源四郎から呼び出しを受ける。極左テロ集団である「東方の赤い獅子」から殺害予告を受けた遠山は、公安に入ったそのテロ集団に関する情報を知らせろというのだ。一方、桂田の相方の浅見誠也は敏腕刑事である桂田に傾倒していたが、ある日警察庁警務局の津城警視から、桂田についての情報の密告を依頼されるのだった。

逢坂剛の人気シリーズの一つである『MOZU』の第一作という位置づけの作品です。実際は、共通の登場人物として津城警視が出てくるというだけの別作品と言うべきでしょう。ただ、作品の雰囲気は同じです。

公安の腕利き刑事として名の高い桂田は、悪徳刑事としての一面も持っています。どこか逢坂剛が作り出した人気キャラクターであるハゲタカこと禿富刑事を思わせる雰囲気や腕力を持っています。でありながら、仕事一途な側面もあり、そのために妻にも逃げられた過去を持つのです。

また孤高であり、人を寄せ付けないところなどは『百舌シリーズ』の倉木尚武警部を思わせる雰囲気もあります。

何より、本書を『百舌シリーズ』の前日譚的位置付けをするとき、津城警視を無視することはできません。本書の本当の主人公はこの津城警視ではないかと思わせる程なのです。

ただ、私はまだこのシリーズの『百舌の叫ぶ夜』しか読んでおらず、津城警視のこのシリーズでの位置づけをよく知るものではありません。今後このシリーズの中でどのような活躍を見せるものなのか、それもまた楽しみでもあります。

本書では中盤で、ある事件の謎ときが提起されます。その謎解きが物語の根幹にかかわるほどのものなのですが、個人的には、この大仕掛けの必要性があまり感じられず、若干ですが気をそがれました。もう少し簡単な方法がありそうだと思えてしまったのです。

こうした点も含め、本書の物語の完成度は決して高いとは思えませんでした。とはいえ、本書の出版年が1981年で、直木賞、日本冒険小説協会大賞を受賞した『カディスの赤い星』よりも5年も前のことであり、ごく初期の作品であるところからすると、逆にこれだけの作品を書いていることのほうが凄いと言わざるを得ません。

結局、先に述べたような若干の不安定要素はありながら、どちらかと言えば重いトーンで彩られているこの物語ですが、読者を惹きつけて離さないだけの魅力は持っている小説なのです。

『百舌シリーズ』も間が空いてしまい、そろそろ次を読みたくなりました。

梶 よう子 連鶴


これまで読んだ梶よう子の作品の中では若干異色の作品でした。梶よう子といえば『一朝の夢』や『御薬園同心 水上草介』のように、どちらかと言えば自然を対象に、人の想いやありようを軽いユーモアに包んで表現すること特徴としていると思っていました。しかし、本作品は、幕末の動乱期の桑名藩の藩士を主人公に、侍の生き方を真摯に問うた、決して明るくはない作品に仕上がっています。

速見丈太郎はかつて道場で話をした坂本竜馬が暗殺されたという知らせを受ける。海外への雄飛を語っていた竜馬同様に海のかなたの国へと想いを馳せていたのだが、時代の流れはその夢を語ることも許ず、ただ薩摩との戦いへとひた走るのみであった。丈太郎の弟の栄之助もまた、商人となる意思を固めていたものの、兄と異なる立場に身を置こうとしていた。

小説で幕末を描く場合、幕府に与する側で描かれることが多いのは、水戸藩か会津藩というところでしょうか。会津藩と言えば動乱の京都において治安部隊として名を馳せた新選組を抱えた藩であり、最後まで新政府軍と戦った藩です。その会津藩の藩主の松平容保の実弟が桑名藩主の松平定敬です。定敬は京都所司代の職にあって、京都守護職であった兄容保と共に京の治安維持に努めています。

本書はこの桑名藩の藩士兄弟の、時代に流されそうになるも必死で生きようとする姿を描いた物語です。

例えば葉室麟や青山文平のように、侍の行動を通して武士の生きざまを問いかける、という書き方とは少し違い、主人公の周りの出来事を描きつつも、主人公の内心の苦悩を中心に描かれています。ですから、どちらかと言えば調子よく読み進める物語とは言えません。

それどころか、いつまでも主人公の内面の葛藤に焦点が当てられているく印象です。町人となることを決め、祝言を間近に迎えている弟の藩への裏切りを思わせる行動や、その弟とも幼馴染である丈太郎の妻美郷と弟との関係などの出来事が語られますが、本書の中盤過ぎに、江戸在府の身である丈太郎が京都守護のために桑名藩への帰郷し、実際に戦いに身を投じるまでは、あまりテンポが良いとは言えないのです。

丈太郎の苦悩は、自分が刀を取って戦うだけの理由が見いだせないことでしょう。掲げるべき大義と言っていいかもしれません。大義なき戦いは力を発揮できないのです。主人公の丈太郎が自らの戦いの意味を問いかける中、幕府の旗頭の徳川慶喜は兵士を置き去りに江戸へと帰り、松平兄弟もそれに同行し江戸に帰ってしまいます。丈太郎は戦いの最中にも関わらず大義を見失ってしまうのです。

以上のような苦悩を描く小説、つまりは幕末の動乱期において時代の波に流される若者らを描いた小説は多数ありますが、残念ながら本書はそうした作品群の中で個性が光っているとは思えませんでした。そういう意味ではこれまでの梶よう子の作品のタッチを期待していると若干期待外れの印象があるかもしれません。

蛇足ながら、表題にもなっている「連鶴」とは、一枚の紙から「多数の折鶴を完全に切り離さずにくっついた状態で」折り出す折り鶴のことを言います。この連鶴が物語の要となり、随所に出てきます。人と人との繋がりなどを示しているのでしょうが、例えば竜馬が殺される場面にこの連鶴があったりと、逆に違和感を覚える使い方をされていたのは、個人的には残念に思えてしまいました。

野口 卓 飛翔


「軍鶏侍」シリーズの第三弾です。「名札」「咬ませ」「巣立ち」の三編が収められています。すでに前巻で著者の世界観が出来上がっているように感じたのは間違いではなかったようです。本作でも、その世界観に則った物語が展開されています

「名札」 今の源太夫の道場には、源太夫を闇討ちしようとして返り討ちにあった道場主の弟子たちも多数通ってきている。その中の数人が実力に応じた名札順になっていないと不平を言っているらしい。そこで源太夫は一計を案じるが・・・。

「咬ませ」 軍鶏侍の名の由来でもある軍鶏。その若鶏を、何とか早く自信も技も身につけさせたい、と願った源太夫は、下僕の権助の助言に従い、強く美しい軍鶏を具現化したような、名鶏の「義経」を“咬ませ”として戦わせようとするのだった。

「巣立ち」 第一巻の『軍鶏侍』の三話目「夏の終わり」で語られた、今では「若軍鶏」と呼ばれる大村圭二郎の物語です。圭二郎の父親は自らの不正がばれ、自刃したことになっていたが、それが冤罪であったことが判明する。源太夫は仇を討とうとする圭二郎をおさえ、仇打ちが叶うだけの力量をつけさせるとともに、師匠としてできることを模索するのだった。

前巻でも書いたのですが、当初感じた藤沢周平と似た雰囲気を持つ作家、という印象からは離れ、独自の世界観を確立している作家さんと言いきってよさそうです。それは藤沢周平のような独自性を持った作家へ成長する大きな可能性を感じさせる、ということで、多くの人が同じように評価しているようです。

ただ、当然のことではあるのですが、話によって若干の出来不出来もあり、本書の場合、「名札」の出来は決していいとは感じませんでした。このシリーズの中では物語の展開や、人物の造詣に深みを感じにくい作品ではないでしょうか。

とはいえ、相当に書きこまれた作家さんであるかのような落ち着いた作風は感じます。まだ他のシリーズを読んでいないので、早く読んでみたいと思います。

野口 卓 獺祭


「軍鶏侍」シリーズの第二弾で、前作に劣らずのそれなりに読み応えのある連作の短編集です。「獺祭(だっさい)」「軍鶏(しゃも)と矮鶏(ちゃぼ)」「岐路」「青田風」の4編が収められています。

「獺祭(だっさい)」 本書の表題にもなっている「獺祭」とは、デジタル大辞泉によりますと「カワウソが自分のとった魚を並べること。」とあります。つまりは「手持ちの札をすべて並べて見せる」ことであり、源太夫が教え子を指導するに際し、碁仇である正願寺の恵海和尚から言われた言葉です。弟子を取られたと思い込んだ他の道場主に闇討ちを仕掛けられた源太夫は、彼らとの立ち合いにおいて秘剣蹴殺しを使います。秘剣を使う自分の姿を弟子たちに見せようとするのです。

「軍鶏(しゃも)と矮鶏(ちゃぼ)」 源太夫は、下僕の権助が連れてきた太物問屋の結城屋の隠居である、惣兵衛という軍鶏仲間を得ます。一方、自分の弟子である森正造という9歳の少年が、見事な軍鶏の絵を描く姿を見かけ、彼のために絵の勉強ができるように奔走しようとします。しかし、そこには思いもかけない障害が待ち受けていました。

「岐路」 源太夫は、自分が討ち果たした立川彦蔵の月命日の墓参には、彦蔵に殺された彦蔵の妻の弟の狭間銕之丞を連れて行っていたが、その折に銕之丞は古くからの知己らしいひとりの娘と出会う。また、弟子のひとりの田貝忠吾が生彩を欠いているのも気になっていたが、どうも女性の絡んだ事柄で屈託を抱えているらしい。朴念仁の源太夫にはどちらも手に余る事柄だった。

「青田風」 自らの手で討ち果たした、親友であった秋山精十郎の子の園が、義父の湯島の勝五郎と共に園瀬藩までやってきた。その陰には精十郎を嫌いぬいていた精十郎の長兄、秋山勢右衛門の企みがあった。

本作においても前作同様の面白さが維持されています。ただ、前作で感じたどこか藤沢周平を思わせる雰囲気は、本作ではあまり感じませんでした。前作は野口卓という作家を始めて読んだことでもあり、設定が藤沢周平のそれと似通っていたこともあってそう感じたのでしょう。

しかし、本作では軍鶏をモチーフとした設定にも慣れ、岩倉源太夫という主人公の佇まいもそれなりに得心して読み進めることができたため、より本作の世界に入れたのだと思います。そうしてみると、本作の世界観はとても入りやすく、また読みやすい物語でもあります。

連作短編という形式ではあっても、実際は長編と言ってもよい内容です。実際、第一話の「獺祭」で交わされた「秘剣蹴殺し」を見せるという約束は、第四話の「青田風」で果たされます。決して剣劇の場面の描写がうまい印象はないのですが、物語自体が剣劇そのものではなく、そこに至る過程にこそ重きが置かれていると思えます。

文芸評論家の細谷正光氏は「剣豪小説」と言いきっておられます。ただ、「そこに収まりきれない広がりを持っている」とも書いておられるのです。

また、楽しみな時代小説作家が増えたと、心躍るばかりです。

近藤 史恵 ねむりねずみ


歌舞伎の世界を舞台にした正統派の推理小説です。

矢倉一子が中村銀弥こと棚橋優の妻になり二年ほど経ったある日、銀弥が「言葉が頭から消えていく」と言いだした。雨、車、時計、時間・・・、言葉が出てこない。
 一方、大部屋の舞台女形である瀬川小菊は学生時代の友人今泉文吾の訪問を受けた。二年前に道頓堀の恵比寿座で起きた、河島栄という料亭の女性経営者が殺された事件について聞きたいのだという。小菊はこの今泉に付き添い、殺人事件の解明に手を貸そうとするのだった。

二年前に起きた事件とは、小川半四郎の舞台の最中に、半四郎の婚約者である河島栄が、一階客席最後列の花道の横に腹部に包丁を突き立てられて死んでいたというものです。この殺人事件を、今泉文吾と小菊、それに今泉の助手である山本公彦という少年と言ってもいい男の子の三人を探偵役として解決していくのです。

久しぶりに本格派の推理小説を読んだ気がします。とはいっても、あまり推理小説を読んでいるという気はせずに過ぎてしまいました。物語の舞台が歌舞伎という世界であるうえに、芸の道をテーマにしているので、若干感情移入しにくいことがあったかに思われます。

私にとっては、一幕目のイントロともいうべき話、つまり中村銀弥の言葉を失うという物語が、この「ねむりねずみ」という物語とどのように関連するのか、という興味が先行していました。

二幕目に入り、今泉と小菊という探偵役が登場し、推理小説としての本編が始まると、更に中村銀弥の問題はどのように処理されるのか、が関心事となってしまっていました。勿論、随所に挟まれる歌舞伎の演目や芸事に対する役者たちの思いなど、目を見張る個所も多数あります。ありますが、下手な本読みとしては本書の構成面に目が行ってしまうのです。

最終的に、ミステリーとしてのこの物語の顛末は今泉の活躍により終息するのですが、謎ときの不満は多いに残りました。それも、まずはトリック以前の、衆人環視の中での殺人事件の成立可能性という本書の根っこに関わる不満であり、そしてトリックそのものに対する不満が残ったのです。

この点については、西上心太氏が本書の解説で「無理を承知の上で」、ある意図のもとにあえてこのような舞台設定にしたのだろうと書いておられます。西上氏の解説は非才の身には若干分かりにくいものではあるのですが、本書ん設定がかなり無理のあるものであることはだれしも認めるところのようです。とすれば、歌舞伎に詳しい作者が素人でも思う無理な場面をあえて設定しているのは、西上氏の言うように、あえて書いた、という指摘が正しいと思わざるを得ないのです。

ともあれ、本書は近藤史恵という作者が『凍える島』でデビューして間もないころに書かれた作品のようです。それでいてこれだけの濃密な作品を書かれるのですから、見ごとなものです。推理小説好きの読者が、本書をどのように評価するのかはまた別な話ですが。

誉田 哲也 歌舞伎町ダムド


現代の「必殺仕事人」を描いた『歌舞伎町セブン』の続編です。小説としての面白さは『歌舞伎町セブン』よりもあったように思います。

歌舞伎町セブンは自分たちの仕事をこなすうちに、一つの仕事が何者かに先を越されていることを知った。そのセブンは、七年前の「歌舞伎町封鎖事件」のときの陰の組織『新世界秩序』が新宿署の東弘樹警部補抹殺に動きだしたことを知り、東警部補の陰のボディーガードを買って出る。すると、そこにはジウの後継者足らんとする男ダムドがいた。

本作は、『ジウ』から『国境事変』、『ハング』と続く一連の世界と舞台が一緒です。でも、「歌舞伎町セブン」を主人公とした、新たなシリーズとしてみたほうがいいように思え、本書はその二作目ということになります。

エンターテインメント小説としては前作よりも本作のほうが面白いと言えるでしょう。本作のほうがよりアクションに重きを置き、物語の展開がスピーディだからでしょう。

特に、敵役の組織「新世界秩序」がその一端をみせ、東警部補の殺害という明確な指令をだし、セブンが東警部補の擁護に回るという明確な構図があります。そのサイドストーリー的な流れとして、セブンのメンバーであるミサキの過去と個人的な事情からめているのも興を添えていると思えます。

具体的な敵役として設定されている「ダムド」は、誉田哲也独特の猟奇的な存在で、その殺害場面は人によっては嫌気がさすかもしれません。なにしろ、人体の解体場面を描写するのです。決して気持ちのいいものではありません。

まあ、そうした場面はダムドが絡む数シーンしかないので、その場面さえ耐えれば後は誉田ワールドです。誉田作品が好きな人にとっては今さら言うまでもないことでしょう。

ただ、残念なのは、このダムドの存在が少々中途半端に感じられるということです。殺人鬼としての存在そのものは理解できますが、この人物の背景は全く描かれてはいません。ジウにあこがれる存在として突然にあらわれるだけです。単なる物語上の駒の一つとして、ただそこに置かれただけ。極端にいえばそうなのです。もう少し、ダムドの背景を描いてあればと思わずにはおれませんでした。

とはいえ、アクションエンターテインメント小説としての面白さは、さすが誉田哲也です。現代の「必殺仕事人」としての役割が若干弱い点もありますが、それでもなお、個人的に好きな作家のひとりでもあり、その期待は裏切られませんでした。

松井 今朝子 吉原十二月


前に読んだ松井今朝子の『吉原手引草』という作品に続く吉原ものです。正月から師走までの12月それぞれの風景を織り込んだ、連作短編12編より成っています。というより、12章に分かれた長編というべきかもしれません。

本作では「舞鶴屋」という大籬の楼主、四代目舞鶴屋庄右衛門の語りという形態をとっています。『吉原手引草』のときは聞き取りに応えるさまざまな人の語りでしたが、本作は楼主ひとりの語りです。

正月は深山花魁の二人禿であった「あかね」と「みどり」の紹介と、庄右衛門との関わりについて語られ、2月如月は16歳となった「あかね」と「みどり」が、それぞれに「初桜(はつはな)」と「初菊(はつぎく)」という新造名を得て振袖新造となり、次いで「小夜衣(さよぎぬ)」と「胡蝶」という花魁となる次第が、初午に絡めて描かれています。

このように、その月の行事などに絡めながら、二人の花魁の成長を親代わりでもある楼主の目線で語っていくのですが、そこは吉原での出来事なので、俗世の通念とは全く異なる絢爛たる世界が繰り広げられます。

エンターテイメント小説としてみるとき、特別に派手な出来事が巻き起こるわけではない本書は、若干の心配があります。『吉原手引草』ではミステリーとしての興味で読み進める面白さがありました。しかし、本書の場合それもないので、吉原という見知らぬ世界を覗くということに興味を持てない人には面白さを感じられないか、と心配になるのです。

「解説」を文芸評論家の杉江松恋氏が書かれていて、そこでは『吉原手引草』での直木賞選考委員の言葉を引いて本書の成り立ちについても解説しておられます。しかし、そこで書かれているような高尚な議論は一般読者が読むときには及びもつかない事柄だと思うのですが、読み終えてから改めて本書を振り返ってみるとき、自分が読んでいる時に感じた事柄の原因、理由を示している場合が多々あって、非常に力になりました。

でも、宮城谷昌光氏の、「作品と読者の距離」が本書では埋められている、と書かれてあるのは分かりませんでした。作者の視点の高さはやはり高いと感じたからです。

作者の知識の膨大さは読んでいればすぐに分かります。そして、読み手はその膨大な知識量、情報量を消化しきれないまま物語は進むので、若干取り残される感じはあります。それでも、本書で繰り広げられる絢爛たる吉原という世界の物語に引き込まれてしまいました。それほどに本書が垣間見せてくれる世界は魅力的です。

青山 文平 つまをめとらば


「ひともうらやむ」「つゆかせぎ」「乳付」「ひと夏」「逢対」「つまをめとらば」の六編からなる短編集です。青山文平という、“侍”を描いてきた作者が初めて、(多分初めて)女性を巡る男たちを描かれています。

「ひともうらやむ」 長倉克巳は眉目秀麗で目録の腕前を持つ秀才で、長倉家本家の総領です。一方、長倉庄平は同じ総領であっても長倉分家の分家の総領です。女ならば誰しも惚れるであろうその克巳が、幕府の御番医師との声もあり、皆のあこがれの的であった浅沼一斎という医師の娘の世津を娶ることになった。しかし長倉庄平の・・・。

「つゆかせぎ」 妻の朋が急な心臓の病で逝って二十日ばかり後、地本問屋(今の本屋)の手代だという男が朋を訪ねてきた。朋は竹亭化月の筆名で戯作を頼んでいたという。朋は木挽町の芝居小屋の娘であったため意外ということでもなかったのだが・・・。

「乳付」 民恵は神尾信明に嫁ぎ、長男新次郎を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く我が子に乳をやることもできないでいた。そこに瀬紀という遠縁の妻女に乳付をしてもらうことになった。瀬紀は民恵と同じ年かっこうであったが、同じ女でも魅入られてしまうほどに輝いていたのだった。

「ひと夏」 部屋済みである高林啓吾は、石山道場奥山念流目録の腕前を持っていた。ある日、誰が赴任しても二年ともたないという御勤めを仰せつかる。しかし、赴任先には、百姓たちは藩の役人をあからさまに見下すが、それに対し何もできない事情があった。

「逢対」 無役の旗本である竹内泰郎は、幼馴染の北島義人と共に、無益の者が出仕を求めて日参する「逢対」に同行する。しかし、北島ではなく、自分だけが呼び出されることになった。

「つまをめとらば」 深堀省吾は幼馴染の山脇貞次郎に家作を貸すこととなった。妻の不義で離縁したため独り身の省吾にとり、気の置けない幼馴染との暮らしは心地よいものだったが、貞次郎には思いを寄せている娘がいて、言い出せずにいるという。

本作品集は、これまでのこの作家の物語とは少しですが趣が異なります。女性を主題にしているからでしょうか、全体的にどことなくユーモアという薄幕をまとわせてあるのです。

これまでの作品では「侍」を前面に押し出し、その生き方を直截的に描くことが多かったと思います。勿論これまでもユーモラスな物語が皆無だというわけではありません。しかし、それらの作品も結局は「侍の生き方」に結びつくものでした。

本書の場合、「乳付」を除いてはやはり主人公は男で、男である主人公の内面を描き出してはいるのですが、「ひと夏」や「つまをめとらば」などは特に、種々の女性の形を描くことで’侍’というよりは’一個の人間’を描いているようです。

現在のあまたおられる時代小説作家の中で一番私の好みに合致するのがこの青山文平という作家さんです。侍のあり方を問う物語の組み立て、硬質ではあるものの格調高く、品格を保っているその文章は、心揺さぶられるものがあるのです。

近藤 史恵 サクリファイス


プロの自転車競技(ロードレース)という、珍しいスポーツをテーマにした小説です。

高校陸上界の中距離走の世界では将来を嘱望されていた白石誓(しらいしちから)は走ることが苦痛でしかなかった。しかし、18歳のとき、チームのために走るという新たな魅力を持ったロードレースに出会う。社会人となり、チーム・オッジの一員に入るが、このチームのエースの石尾豪という選手には、ライバルにまつわる黒い噂があった。

この作者の時代小説作品は、歌舞伎の世界を垣間見せてくれる作品であったためか、とても落ち着いたミステリー小説という印象でした。しかし、本書はそれとは異なり、動きにあふれた、青春小説のイメージをもあわせ持った小説です。本書がロードレースの世界を描いているので、当たり前と言えば当たり前なのですが、この作者の異なる一面を垣間見せてくれます。

ロードレースについては、一般的にはその存在は知られていても、そのルールを含めた内容は全くと言っていいほどに知られていないと思います。本書では、その競技の内容について冒頭から丁寧な説明が為されていて、知識欲をくすぐられると同時に、スポーツ小説としての面白さに引き込まれてしまいます。

読み進むにつれ、自転車競技が団体競技である、ということの意味がゆっくりと心に染みてきます。とはいえ先入観を払拭することは簡単ではなく、「優勝」という現実が目の前にあるのに、ペダルを漕ぐ足をゆるめるということはなかなかに理解できないままでした。 でも、サッカーやラグビーという例を挙げるまでもなく、団体競技である以上、自分の役割を果たすというおとは、当たり前のことなのです。単に団体競技として見ることができていないから理解できないと思うだけのことでした。

スポーツ小説として読み進みにつれ、いつしかサスペンス感にあふれた小説に変化しています。そこではある悲劇にまつわるミステリーが展開されるのです。

自転車競技の世界を知っている人からすれば、実情とは異なる、という批判もあるようです。しかし、実際のことは分かりませんが、よほど極端に間違った情報を与えられているというのであれば別ですが、自転車競技の素人が読んで、自転車競技のそれなりの雰囲気を味あわせてくれていることは否めないのではないでしょうか。

本書には恋愛を絡めた部分もあるのですが、その点に関しては、個人的には、不要とは言わないまでも、消化不良の感じはしました。

ただ、そうした不満はあっても、大藪春彦賞を受賞した作品であることが思い知らされます。舞台がユニークだあるだけでなく、スポーツ小説としても、青春小説としても抜群の面白さを持った小説でした。

野口 卓 軍鶏侍


ネット上で面白いとあったので、あまり期待せずに読んだ本ですが、これがなかなかの掘り出しものでした。「軍鶏侍」「沈める鐘」「夏の終わり」「ちと、つらい」「蹴殺し」の5編からなる連作の短編集です。

「軍鶏侍」 隠居の身である岩倉源太夫は、筆頭家老稲川八郎兵衛から呼び出しを受けた。中老の新野平左衛門と側用人の的場彦之丞が近江屋と結託し、藩を私物化しているという。そこで藩のために、江戸に居る的場から園瀬の新野への使者を切れというのだ。人とのしがらみを嫌い隠居したのだが、藩の政争に巻き込まれる源太夫だった。

「沈める鐘」 源太夫は、長男修一郎の嫁である布佐の兄の清水均之介からの話で、子供ができずに離縁されたことのあるみつという女を後添えとしてもらうことになる。そこに立川彦蔵というみつの前夫を討つようにとの命が下った。

「夏の終わり」 源太夫の友である池田盤晴の頼みで、藩校の教授方である盤晴の教え子の、友達づきあいが下手だという大村圭二郎という子を預かることになる。その圭二郎が、なりゆきから花房川の藤ヶ淵の大鯉を釣ることになり、権助が手伝うことになった。

「ちと、つらい」 その貧相さから侘助との渾名をもつ弓組の戸崎喬之進は、大岡多恵と夫婦になることになった。かつて多恵との話を断られた馬廻組の酒井洋之介は、くやしさから侘助を侮辱する言動を繰り返し、それに耐えかねた侘助は洋之介と果たし合いをすることとなった。

「蹴殺し」 ある日、源太夫の道場に武尾福太郎という浪人が居候として居座ることになった。権助に梟のようだと言われる武尾は、源太夫の「蹴殺し」という秘剣を見せてほしいと言ってきた。

主人公の岩倉源太夫は、剣の師の日向主水から、早く隠居をすることこそ気楽に生きる道だと言われます。そのとおりに剣の道にまい進した源太夫は18歳で日向道場一の折紙を得、その年に妻をもらい、翌年には江戸詰となります。江戸では一刀流の椿道場で腕を上げるとともに、同じ道場仲間の秋山清十郎という友の父勢右衛門から教えられた軍鶏の美しさにひかれてしまいます。国元に帰った源太夫は、授かっていた長男修一郎が嫁を貰うとすぐに隠居願を出し、認められるのです。

本書を読んだ時代劇好きな人であれば誰しも藤沢周平を思い出すでしょう。それほどに雰囲気が似ています。とくに藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』とは、共に剣の使い手ですが、すでに隠居した身である男が主人公であり、同じ様に藩の政争に巻き込まれていく、という点で一致します。

しかし、本書は藤沢作品に似てはいますが、独自の世界を作り上げられておられます。たしかに、藤沢作品の持つ落ち着いた山間の風景を思わせるような静謐さはいまだ感じられないようです。しかし、驚くのは、本書がこの作家の長編デビュー作だということです。それでいて、力みを感じさせない、もう長年時代小説を書かれている作家であるかのような雰囲気を味あわせてくれます。

登場人物もいいです。まずは下僕の権助ですがこの存在がいい。物語上も結構重要な存在として描かれています。主人公に「何者だ」と思わせるほどに種々の物事を知っていて、それでいて好々爺的雰囲気も持っているのです。また、後添えとして途中から登場するみつも、源太夫をそっと支える夫人として存在感があります。

そして、全体を貫く軍鶏の存在があります。軍鶏に入れ込むがゆえに「軍鶏侍」と揶揄される主人公。その主人公の生き方をそのまま軍鶏に絡めて説明していく進め方など、とてものこと新人とは思えません。

続編が出ているようです。本格的な時代小説の書き手としてまた注目すべき作家さんが増えました。

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Author:siro
このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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