夏川 草介 神様のカルテ 0


『神様のカルテ』シリーズの第四作目、『神様のカルテ』第一巻の前日譚が描かれています。時系列的には本書が最初に位置することになりますね。「有明」「彼岸過ぎまで」「神様のカルテ」「冬山記」の四作の短編が収められています。

「有明」 信濃大学医学部学生寮に暮らす、国家試験を前にした栗原一止、進藤辰也、砂山次郎、如月千夏たちの、ひと時を切り取った物語です。そこに、楠田重正という五十二歳の学生がいて、更に一学年下で辰也の恋人でもある草木まどかが加わります。帝都大学研修コースへの参加を惑う辰也、国家試験以前の卒業試験に悩む楠田、そして、本条病院への就職に悩む一止など、『神様のカルテ』シリーズにはおなじみのメンバーの青春記です。

「彼岸過ぎまで」 松本市の地域医療の中核を担う本庄病院に「24時間365日診療」の看板が掲げられた。赤字である病院経営を立て直すための方途の一つであるらしい。内科部長の板垣源蔵、内科副部長の内藤鴨一は複雑な面持ちでその看板を見やった。外科部長の乾と金庫番である事務長の金山弁次とは相容れず、いつも乾のどなり声が絶えない。しかし、金山事務長の能力は本庄病院の立て直しのみならず、医療そのものへの環境整備の意味合いをも持つものだった。

「神様のカルテ」 本庄病院の一年目の研修医である栗原一止が初めて迎える夏、既に「引きの栗原」の異名を賜っていた一止は國枝正彦という患者を担当することになった。内臓のあちこちに転移の進んだかなり進行した癌患者だという。しかし、國枝は治療の開始を待ってくれというのだった。

「冬山記」 一止の愛妻であるハルこと片島榛名のひと夏の山の物語です。これまで直接には焦点が当たってこなかったハルの知られざる一面が描かれています。片島榛名という本名はシリーズの最初にでも出てきたのでしょうが、この短編を読むまで忘れていました。

本作品はシリーズのサイドストーリーと位置付けられる物語です。一止を取り巻く人物の知られざる側面が描かれています。とはいえ、三話目の「神様のカルテ」などは一止が本庄病院に来るまでの話であり、本編の流れの中にある物語です。

シリーズのそれぞれの巻で地域医療、先端医療、終末医療と種々の問題を取り上げてはいます。でも、本書を読んでいると、このシリーズを通しての作者の本音は、一止に言わせている「困った人がいれば手をさし述べる場所であってほしい」という言葉にあると思えます。「医療の基本だそうですな」という板垣内科部長や、「一本取られたわ」という乾外科部長の台詞、そして「理想と現実のギャップ」を言うこの二人の医者の一止に対する期待は、はそのまま医者としての著者の言葉でもあるようです。「あえて悪意を持って評すれば、最大限に患者を受け入れて、最低限の治療をする。」という国の医療施策の流れの中での医者のあり方を問うているのでしょう。

そうした流れとは別に本書で気になった個所があります。それは、第三話の「神様のカルテ」の中にある、一止と患者の國枝正彦との「本」についての会話です。読書は未経験のことを追体験できる素晴らしいことだ、とはよく言われる言葉ですが、國枝氏はその先へと言葉を続け、本が教えてくれるのは正解ではなく、もっと別なことだと言うのです。

たくさんの人生を体験できるということは、それはたくさんの人の気持ちもわかるようになるということだ。そして、人の気持ちがわかると優しい人間になれる。優しいということは弱さではない。相手が何を考えているのか考える力を「優しさ」というのだ。最後に國枝氏は一止に言います。「しかし、優しい人は苦労します。」

こうした本に出会うことが本を読むことの喜びだと痛切に思います。

木内 一裕 デッドボール


テンポが良い文体が特徴の一つでもある木内一裕という作家の、一種遊び心満載と言ってもよさそうな、痛快(青春?)(アクション?)小説です。

何をやってもうまくいかず、自棄になっていたノボルは、1000万円という金に惹かれ、絶対に怪我をさせない約束で誘拐に手を貸すことになった。ところが、約束の場所に金を持った人間は現れず、翌日、自分らは殺人事件の犯人になっていた。

ノボルという律義さだけが取り柄だという主人公と、佐藤というノボルを犯罪に引きずり込んだ男、そして被害者宅の弁護士である成宮弁護士とその愛人の愛美(まなみ)、本書は殆どこの四人で成立しています。

本書はプロローグとエピソード、それに四つの章から成っているのですが、基本的には章ごとに、厳密には同じ章の中でも、随時視点が切り替わっています。そして同じ場面を異なる人物の視点で見るという、面白い構成です。

とにかく場面転換が早く、登場人物の立ち位置がコロコロと変わります。短めの文章をたたみ掛けるように注いでくる書き方は、全体の構成とも相まって、実に映画的との印象を持ちました。

木内一裕という作家の特徴の一つに、ジェットコースター的な疾走感が挙げられますが、本書もその特徴から外れていません。ただ、『藁の楯』や『水の中の犬』のようなバイオレンスの要素はありません。一種のコンゲームと言えるでしょう。

とにかく、単純に物語の世界に乗っかって楽しむ、そういう本です。

浅田 次郎 歩兵の本領


読み手の心に深く語りかけてくる浅田次郎の紡ぎだすこの物語は、読んでいる時間をとても「幸福な時間」と思わせる作品でした。「若鷲の歌」「小村二等兵の憂鬱」「バトルライン」「門前金融」「入営」「シンデレラ・リバティー」「脱柵者」「越年歩哨」「歩兵の本領」という九つの短編がおさめられています。

名誉も誇りもない、そして戦闘を前提としていない、世界一奇妙な軍隊・自衛隊。世間が高度成長で浮かれ、就職の心配など無用の時代に、志願して自衛官になった若者たちがいた。軍人としての立場を全うし、男子の本懐を遂げようと生きる彼らを活写した、著者自らの体験を綴る涙と笑いの青春グラフィティ。(「BOOK」データベースより)

本文中に、「昨年市ヶ谷で自殺した小説家がいた」という一文がありました。つまりは三島由紀夫の割腹事件が1970年の出来事で、私が大学浪人していた頃のことですから、私は本書に登場する若者たちと同世代ということになります。今でこそ自衛隊もそれなりに社会に認知されていると言っていいのでしょうが、本書で語られているように、あの頃の世相は今ほどには自衛隊が認知されているとは言えない状況だったと思います。

私の身内にも自衛隊員はいましたし、昔の仲間では自衛隊に入隊したり、防大に進学した者もいます。しかし、彼らから自衛隊内部での話を聞いたことはありません。自衛隊内部の様子は本作品で始めて知りました。ただ、かつてわが郷土の直木賞作家である光岡明氏が書かれた『草と草との距離』という作品が自衛隊員の物語だったと思うのですが、今では内容もほとんど覚えておらず定かではありません。間違っていたらごめんなさい。

本書『歩兵の本領』では、『天切り松 闇がたりシリーズ 』に見られるような、七五調の言葉でたたみかけてくるリズムはありません。ですが、その場の情景や人物の心情を挟み込みながら交わされる会話文の調子の良さ、見事さは浅田次郎の文章そのものです。読者はいつもの通りに浅田次郎の世界に簡単に引き込まれてしまいます。

終わり近くの「脱柵者」という短編があります。「脱柵」とは「脱走」のことであり、字面のすり替えの一つです。大学出の若者が主人公で、彼は自衛隊について考察する場面があります。自衛隊は「個人の行為が個人の責任に帰着しない世界」であり、「個性を滅却させて・・・細胞同士がおのおのの存在責任に関与し・・・緊密な連帯を保ち続けねばならない」ない世界だと言い、「娑婆」への逃走を図るのです。自衛隊という存在に対する浅田次郎なりの答えを、他の短編で示す以上に、本短編で明確に示しているように感じます。彼の行く末は本書を読んでもらうとして、自衛隊という「個」が否定される社会での人情味豊かな物語が展開されています。

実際の自衛隊の内情を知らない私なので、本書がどこまで自衛隊の真実を描いているのかは分かりません。現実は本書のような人情話では語られないような世界が広がっているのでしょう。しかし、せめて物語の世界では人情の温かさに浸っていたいし、また、現実にもそうした世界があるのだと信じたいものです。

雫井 脩介 検察側の罪人


ミステリーと言っていいものか、「正義」とは何か、という大上段からのテーマに正面から挑んだ大作です。

主人公の最上毅は、司法試験浪人時代に、自分が学生時代に暮らしていた寮の世話人夫婦の一人娘が殺された事件を忘れられないでいた。今は東京地検のベテラン検事になっている最上は、大田区で起きた老夫婦刺殺事件の容疑者の一人に、かつての事件の容疑者であった男の存在を知る。その男が今回の事件についてかかわりを持つのであれば今度こそは逃がさないと決意する最上だった。しかし・・・。

小説として面白いかと問われれば、決して全面的に賛成というわけにはいきません。読み始めから本書全体を通しての構造の見当がついて、ほぼその通りに進みました。加えて、物語自体が重すぎて、個人的な好みからも外れていました。

物語のトーンが重くても、十分なリアリティを持ち、丁寧な書き込みが為されていれば、それなりに感情移入できる作品ももちろんあります。しかし本書の場合、それもありませんでした。でも、結局のところ面白いと感じなかった一番の理由は、最上という検事の存在感の無さに尽きるようです。

テーマには興味がありました。昔、少しだけ法律の勉強をしていた私にとって、あくまで法律の解釈という側面の問題ではありますが、本書の扱う問題は決して遠い話ではなく、実に身近な問題でした。法律を学ぶときに「法とは何か」が常に問われ、勿論「正義」の何たるやについても話し合ったものです。

「正義」などという、誰しもが大切に思っているのに言葉として口に出すことをはばかるような、それでいて人間存在にかかわるようなこの言葉を、多くの作品が多かれ少なかれテーマにしてきました。すぐに思いつく作品では、東野圭吾の『さまよう刃』や横山秀夫の『半落ち』など、他にも挙げればきりないでしょう。

そして、本書『検察側の罪人』というこの作品で、答えのない設問ともいえるこの問題に対し、『犯人に告ぐ!』を書いた雫井脩介という作家はどのような答えを出すのか、非常な関心を持って読んだのです。しかし、雫井脩介という作家の物語の処理の仕方とすれば、決して認めたくはない作品と感じたのです。

勿論、検事の存在感が無い、という批判を、「正義とは何か」を問う小説の設定として設けられているだけ、と割り切れば取るに足りない事柄であり、そう捉える人にとっては、言葉は違うかもしれませんが、面白い小説ということになると思います。それほどの力作だという点では異論はないのです。

終盤、最上を追い詰めた新進気鋭の検事の慟哭は、作者なりのこの問題に対する答えなのでしょうし、読んでいて胸が熱くなる思いでした。それだけに、最上検事の行動に対しては賛否以前の印象を持たざるを得なかったことはとても残念でした。

ジェイムズ・ダシュナー メイズ・ランナー


この本は掘り出しものでした。私の好みに正面からはまった物語を見つけたと感じます。

少年は古い炭鉱にあるようなエレベーターの中で目を覚ました。覚えているのは自分の名前がトーマスということだけ。ようやく上昇が終わると、そこは周囲を巨大な壁で囲われた巨大な広場だった。少年は巨大な壁にある扉の先には迷路しかないことを知る。ここはどこなのか、迷路は何のために存在するのか、少年の冒険が始まる。

痛快冒険小説の見本のような小説です。文庫本で533頁という、決して短いとは言えない物語なのですが、途中でやめることができず一気に読み終えてしまいました。それほどに興奮する小説です。よく書きこまれた重厚な物語を探している方には向いておらず、単純に冒険物語の世界観に浸りたい人のための物語です。

この本にはお色気は全くなく、暴力もほとんど、少年たちの同士のけんかくらいしかありません。あるのは、迷路の中にいる生物とも機械ともつかない生き物との闘争だけです。一部にほんの少しだけ、若干不気味な描写が無くはないのですが、それも取り立てて言うほどのものではないでしょう。

物語はこの世界に存在する謎の解明に向かって疾走します。最初は少しずつこの世界の説明があり、読者がこの世界の環境に慣れてくる頃に、この世界では初めての二日連続の新人の登場という状況に放り込まれます。そして、その新たな新人は女の子であり、女の子の存在自体がこの世界では初めてなのです。

この調子で、世界の説明、新たな謎、迷路の説明、迷路についての新たな謎などというように、読者の関心を上手に捕まえながら、その先の展開へと読者の関心を惹きつけて離しません。

そもそも本書はヤングアダルト向けSFスリラー小説として2009年にアメリカで発表されたそうです。あとがきを書いている本書も訳されている田内志文氏によりますと、作者のジェイムズ・ダシュナーという人は2003年に作家デビューし、作品も2015年の現在までに刊行予定のものも含めると18作もあると言いますから、「ものすごいペース」なのだそうです。

私が本書を知ったのは、既に映画化されているその予告編を見て面白そうと思ったからなのです。迫力ある画面、主人公である若者らの疾走感、何よりも迷路からの脱出というそのコンセプトに惹かれたからでした。

続編を読みたいと図書館を検索したのですが今のところまだありません、と書いたのが10日ほど前。2015年10月の下旬には入っていて、早速予約しました。映画も、DVDのレンタルで安くなったら必ず見ることでしょう。

ノンストップホラーや痛快アクション小説が好きな方ならば必ずはまるでしょう。面白さは間違いないと思います。

東野 圭吾 ナミヤ雑貨店の奇蹟


やはり東野圭吾という作家さんはうまい、としみじみ思わされた一冊でした。この作品は第7回中央公論文芸賞を受賞しています。

東京から車で二時間ほどの場所に位置する町の一角にある雑貨店は、どんな悩みにも応えてくれることで有名だった。ある日、コソ泥を働いてきた若者らが、もうだれも住んでいないこの雑貨店に逃げ込んできた。ところが、そこに一通の封書が舞い込む。誰かが悩み相談の封書を投げ込んできたのだ。若者らは、この封書を無視することもできず、返事を書くことにした。

この作品は推理小説ではありません。言ってみればほのぼの系のファンタジー小説というべきでしょうか。

私が読んだ東野圭吾の作品の中でファンタジー系の小説と言えば『パラドックス13』をまず思い出します。『トキオ』もファンタジーといっていいでしょう。私が読んでいないファンタジー系の作品としては『虹を操る少年』や『パラレルワールド・ラブストーリー』が挙げられているようです。

一応連作の短編集という構成なのでしょうが、これだけ各話が関連してくると一つの長編として捉えるべきとも思えます。それほどにそれぞれの物語が他の物語の伏線としても機能していて、最終的に全体として一つの作品になっているのです。いや、本書の成り立ちをあらためて考えると、やはり一冊の長編と言うべき気がしてきました。

あまり書くとネタバレになるので書けませんが、「ナミヤ雑貨店」を中心として様々な人たちの生き方が時代を越えて交錯し、互いに助け、助けられして影響を与えあっているのです。私たちの人生もそうで、今のあなたのその行為は他の人に深く影響を与えるかもしれないよ、人間としてのお互いの存在は互いに深くかかわりあっているのだよと言っているようです。

この物語は推理小説ではありませんが、例えばコソ泥を働いてきた若者らや「ナミヤ雑貨店」に届く手紙を書いた人の素性、その手紙を出した人にまつわる秘密、悩みに答え続ける「ナミヤ雑貨店」の店主の最後の願いの意味など、次々に沸き起こる謎を丁寧に説き起こしながら、物語の終わりに向かいつつも張られていた伏線はきれいにかたずけられていきます。

この物語は、純粋に人間を描いた心温まるヒューマンスートリーとしても面白い物語として仕上がったと思えます。それが、興味をふくらませられる謎絡みでの物語に仕上げられていいて、読み手の興味は更に増すのです。

それにしても、何の変哲もない一軒家を舞台に、「手紙」という道具立て一つで、読み手の心に静かに語りかけてくる物語を紡ぎだすのですから、この作者のストーリーテラーとしての力は、あらためて言うまでもないのですが、うまいものだと感心させられます。

半村 良 江戸打入り


この本もまた、半村良の未読の作品が目の前に現れたのですぐに借りたものです。半村良の作品はそのほとんどを読破していると思っていたので、驚きました。タイトルを聞いたことすらありませんでした。

三河の岡崎の北にある足助の在の鈴木金七郎は、鈴木家の最後の男として、秀吉の小田原攻めに徳川家康の雑兵として参戦することになった。秀吉に従う家康配下の金七郎は、家を残すために生きながらえるべく目立たぬように雑兵でいたのだが、自然とその才が目立ってくるのだった。

この本についても何の前提知識もないままに読み始めました。「江戸打入り」というタイトルからして、何らかの活劇ものであり、文字通り江戸にいる何者かに戦を仕掛ける話、などの漠然とした先入観は見事に覆されました。今まで読んだことのない、雑兵目線での戦国時代、いや戦そのものを語った物語だったのです。

半村良という人の作品は、虚構の話を、史実の裏付けでいかにも本当らしく思わせながら、奇想天外に展開される話が魅力であり、また、その手腕に酔っていたものです。

ところが、本書は綿密な下調べをうかがわせる、戦国時代の新たな知識を随所にちりばめてあります。

金七郎は、血縁の家に世話になりそこから戦に出るのですが、その家は作事担当です。言ってみれば工兵であり、土木建築などの技術を持った集団です。家を永らえさせるために生きねばならない金七郎は小荷駄の護衛役という、比較的安全な役回りになっていますが、戦場において新米であることに変わりはなく、何かと新たな知識を吸収していきます。そして、そのさまが読者に戦国時代の戦の様子を垣間見せてくれるのです。

例えば、金七郎は休一という会下僧と知り合います。会下僧とは、戦時に敵味方区別なく説法をしたり経をあげたりする僧のことだそうで、自由に戦地を通行できた彼らは様々な情報も見聞きします。この会下僧がこの小田原攻めでの種々の情報を金七郎にももたらしてくれ、それは読者にとっても戦国の世の裏方の解説にもなるのです。

また、雑兵たちの仕事ぶりばかりではありません。彼ら下っ端の、戦や世の中に対する視点もまた見所です。これまで読んできた歴史小説は武将や剣豪、庶民であっても何らかの能力を持った言わばヒーローの物語でした。本書は全くの一般庶民の物語です。百姓の目線での戦というものに対する考察でもあります。

これまでの半村良のイメージが若干変わった、その意味でも面白い小説でした。

浅倉 卓弥 四日間の奇蹟


図書館でいつもの通り本を眺めていたら、「このミステリーがすごい!」大賞の金賞を受賞し、「癒しと再生のファンタジー」を描いた作品だという紹介文を見つけ、これまたいつもの通りにすぐに借りました。

自らもピアニストであった如月敬輔は、自閉症でありながら天才的なピアニストでもある楠本千織という少女を連れ、とある療養施設にたどり着いた。そこにいた職員の一人の岩村真理子は高校時代の如月敬輔を知っていて招いたらしい。次の日、真理子と千織が散歩をしているときにヘリの墜落事故に二人が巻き込まれてしまい、信じられないことが起きるのだった。

全くの前提知識なしに読んだ本が、意外な面白さを持っていたときの喜びはまたひとしおです。本書もまたまさにそんな本でした。惹句の「描写力抜群、正統派の魅力」「新人離れしたうまさが光る!」という文句が実に的を得た文言だと納得できる、とても新人の作品とは思えないほどに丁寧に書きこまれた作品でした。主人公如月敬輔と楠本千織との出会い、キーマンである岩村真理子との邂逅。そしてその後の展開と、そのどれもが不自然さは全く感じられませんでした。

タイトルに「奇蹟」とあることからも、内容はファンタジックな物語だということはすぐに見当がつきます。問題はその不可思議な出来事の処理の仕方でしょう。

この作品の要は「人格の転移」です。このことは本作品をちょっと調べればネット上のあちこちに書いてありますので、書いてもネタバレにはならないでしょう。つまりは、大林宣彦監督の青春映画の名作と言われている『転校生』の設定なのです。勿論、状況設定が同じというだけで、物語は全く違います。そして、その人智を超えた出来事の描き方は新人の域を超えていると誰もが思うでしょうし、その結果が「このミステリーがすごい!」大賞金賞受賞に結びついているのです。

文庫本で501頁と、若干長めではありますが、その長さを感じさせない筆力があります。単なる感傷ではない、読み手の心の中にまで入り込んでくる場面の描写は、勿論全くの個人的な印象ですが、どことなく小川洋子の『博士の愛した数式』を思い起こすものでした。

梶尾 真治 壱里島奇譚


さすが梶尾真治というしかない癒し系のファンタジー小説です。

生活に倦んでいた宮口翔一は「おもしろたわし」の調査を命じられて、熊本の天草に飛んだ。飛んだ先の壱里島は風光明美な島で、信柄浦岳を中心として何かと不可思議なことが起きていた。同じ時に壱里島に来ていたヒーリングスポットライターの機敷埜風天と共にそのパワーの源を目指す宮口だった。

わが郷土の熊本の、天草のとある小島を舞台にした、梶尾真治お得意の物語です。ただ、今回は梶尾真治が一番の得意分野であるタイムワープものではありません。まあ、まったく無関係ではありませんが。

主人公は会社を辞めることをも考えている宮口翔一というサラリーマンです。彼が上司に命じられて、郷土熊本の天草へと向かうところから話は始まります。

調査の元となったのは、不思議商品の「おもしろたわし」。その商品調査が目的だったのですが、訪ねて行った先では次々と不思議な現象に出会います。そのうちに、「おもしろたわし」の調査は二の次になり、この島の魅力に取りつかれている自分に気づくのです。

梶尾真治作品特徴でもあるのですが、悪人は出てきません。取り除くべき障害はあります。でも、具体的な人間像としての悪人は出ずに、障害の陰に隠されています。描くべきは障害に立ち向かう主人公であり、その仲間たちであって、その絆であるようです。

梶尾真治作品の人気の秘密の一つは、最後に待っている意外性にあると思います。一通り進んできた物語がそのまま終わってもよさそうなのですが、最後にひとひねりがあり、読者はそのひねりに胸を打たれるのです。

そして、梶尾真治作品のもうひとつの特徴と言ってもよさそうなのがロマンティシズムだと思うのですが、その色合いも本作では前面には出ていません。代わりに本作品では人の思いを、恋人や家族、そして故郷に対する思いを謳いあげています。

決して派手ではないけれど、作者の温かな気持ちが伝わり、読み終えてから爽やかな心地よさが残る作品でした。

又吉 直樹 火花


現役の人気漫才師でありながら、小説を書き、処女作でありながら芥川賞を取ってしまったという、今話題の漫才師、ピースの又吉の小説です。

スパークスという漫才師の片割れである徳永は、お笑いの先輩である神谷から自分の伝記を書くように命じられる。神谷を笑いの天才だと信じる徳永は、いつも神谷のそばに居て言われるままに神谷の言動を記録する。二人の間では常に「笑い」があり、「笑い」のために日常があるのだった。

ほとんど全編が神谷の心象のみで成立していると言えなくもありません。徳永が心酔する神谷の存在でさえも、徳永の語る「笑い」のための道具であるようです。徳永が語る「笑い」は人間の生き方そのものであり、彼にとっての存在理由なのです。神谷と徳永の会話重視で成り立っている本書『火花』ですが、その意味では全編、徳永の思う「お笑い」の追及であり、神谷と徳永の関係性の変遷の歴史です。

中盤を過ぎて、神谷先輩の新しい彼女の家で、テレビに出ているスパークスを見たときの二人の場面は圧巻です。スパークスのネタで笑わない神谷。その神谷に対し辛辣な言葉を投げつける徳永。そこには、芸人として売れているか否かという厳然たる事実があるのでしょう。世間からは全く評価されていない神谷は、テレビにそこそこ出ている徳永の痛烈な言葉に対し何も反論しません。

なんとなく、神谷を神格化している自分に気づいていた徳永が、普通の人間であるところを見せる神谷に対して吐く言葉は暴力的でさえあります。そんなことを言うつもりはなかった徳永ですが、神谷を傷つける言葉は止みません。

ここでの徳永は寂しさに溢れているのでしょう。自分にとって普通の人間であるべきではない先輩が普通の人である顔を見せた時、徳永の笑いに対する思いも共に霧消してしまう気がして寂しかったに違いないのです。

ここでは徳永の思うお笑いと、神谷の言うお笑いとのギャップさえ感じられ、それに気が付いている徳永の心情もまた哀れですらあります。

しかし、作者の言いたいことはそんなことでもなさそうな気もします。純粋に、お笑いというものに対する彼なりの答えではないかという気もするのです。

正直なところを言えば、徳永の語る言葉は、その意味が半分は理解できませんでした。エンターテイメント小説ではあまりしない、何度も読み返すという作業が随所に必要でした。それでもよく分からない。

そもそも「面白い」という言葉自体主観的なものである以上は、徳永の追及する「純正の面白い」の意味は他人が分かる筈もないのではないでしょうか。分かる筈もないものを分かろうとしても無理である以上は、最大公約数を見つけるしかなく、それは客である素人の目線につながると思うのですが、徳永はそうは考えていないようです。

この作品の映画化の話があるようで、監督として同じ吉本所属のダウンタウン松本、品川庄司の品川らの名前が挙がっているようです。いずれにしてもお笑いとは何ぞや、という質問に答えを出す必要があるでしょうから難しい作業になるのでしょう。それとも、他の描写の仕方があるのかもしれませんね。

それにしても、芥川賞作品は久しぶりに読んだのですが、ここまで直截的に主人公の内面に焦点の当てられた作品も珍しいのではないでしょうか。ここに至り、あらためて純文学とは何か、大衆文学との違いは何かということを考えさせられた作品でもありました。

高部 務 新宿物語


本書の舞台は19769年頃の新宿です。たまに山谷が出てきます。岡林信康が「今日の仕事はつらかった~♪」と歌ったあの山谷です、と言っても若い人にはかえって分かりにくいでしょうか。

当時の新宿を舞台にしたエンタメ小説と思って借りたのですが、中身は物語に特別に大きな出来事があるわけでもなく、当時のフーテンの日常を描いただけの物語でした。ただ、このフーテンの日常生活が今の学生生活とは全く異なりますので、興味のある人にはかなり面白い物語かもしれません。

私にとって新宿は特別に思い入れのある街です。私が大学浪人として東京に出たのが、この本に描かれた年の翌年の1971年の春。その数ヶ月後には新宿二丁目の熊本ラーメンの店でラーメンを作っていました。その店の地階に『海賊』というちょっと広めのスナックがあり、毎日といっていいほどそこで飲んでいたのです。

本書の舞台となる新宿歌舞伎町は近くでもあり、よく行きました。本書に書かれている雰囲気はまだ残っていて、その残り香を肌で感じた、と言ったところでしょうか。

そんなわが青春の町でもある新宿の、それも時代も同じ1970年頃の物語というのですから、図書館で見つけた時は心躍り、早速借りたのです。

しかし、前述したように若干期待とは異なる内容でした。本書は、1968年から1970年にかけての新宿にたむろしていたフーテン達の物語であり、その点では期待どおりです。ただ、主人公の「僕」こと高垣の日常が彼自身の言葉で語られるのですが、どうしても高垣の目を通した記録になっていて、高垣や周りのフーテン達の内面が今一つ見えて来ませんでした。どこまでが作者の実体験なのかは分かりませんが、当時の世相を客観的に描いてあり、そしてそれだけで終わった印象です。

勿論、フーテンとして毎日を過ごす若者の、彼らなりの主張を持っているかのような日常をそれなりに描写してはあります。その限りにおいて当時の雰囲気をよく描いてあるなとも思います。

でも、私が上京したのは本書の時代よりも一年遅れてはいましたが、白戸三平の『カムイ伝』を読みながら、高橋和巳や五木寛之を耽溺し、岡林信康を聞きつつもジャズ喫茶に入り浸り、マルクスの『資本論』やエンゲルスの『空想から科学へ』を手に取っただけでもう読んだような気になっていた若者は、そこらに転がっていたのです。そういう彼らも、彼らなりに内面的な葛藤を抱えていました。

本書に登場する若者たちは新宿騒乱事件や赤軍派に加担するレベルであり、当時の私の周りの若者たちよりももう一段も二段もフーテン生活や学生運動、労働運動に軸足を移していて、私の周りの若者たちと同列には論じられないのですが、それでも彼らなりに悩み苦しんでいたのは同じです。そうした若者たちの心情を描いてほしいと痛切に思ったのです。

でも、単なる感傷として過去を語るよりもずっといいのかもしれませんが。

浅田 次郎 五郎治殿御始末


『壬生義士伝』や『天切り松 闇がたりシリーズ 』などで見せた浅田次郎節を十分に堪能させてくれる一冊でした。「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められています。

「椿寺まで」 日本橋で反物などを商う江戸屋小兵衛は、丁稚の新太を連れた旅で、高幡不動のそばにある椿寺までたどり着いた。新太が椿寺で寺男から聞かされた物語は、新太の思いもよらないものだった。
 浅田次郎のリズムのある、たたみ掛けるような文章が心に迫ってくる好短編です。以前、浅田次郎の文章は歌舞伎の台詞のリズムを取り入れている、という話を書きましたが、本書もそのリズムに乗った文章が胸に迫ります。

「箱舘証文」 明治新政府の工部少輔(しょうゆう)の職についている大河内厚は、自らの命を千両で購った過去を持つが、その掛け取りに来たという渡辺という男の訪問をうけた。
 主人公の大河内は開国に伴って性急に行われる「旧なるもの」の取り壊しに得心がいかないでいたのですが、職を賭して反対意見を述べる侍でもあります。負け戦を戦った侍の生き残りが、楓御門の取り壊しに「武士の命乞い」を申し立てる様は感動的です。大河内だけではなく、命の金の掛け取りに来た渡辺、大河内が相談に行った師である山野方斎らもまた侍であり、彼らの振舞いが更なる感銘を呼び起こします。

「西を向く侍」 成瀬勘十郎は和算術と暦法を収めた異能の秀才だったが、新政府への出仕の待命も五年になろうかという折に、明治五年は十二月二日を持って終わり、あくる日は明治六年の元旦になるというお達しがでた。勘十郎は太陽暦採用の真の意味を喝破し、我が国固有の文化を売り渡してはならない、国民の暮らしを守らなければならないと新政府の高官の前で論じるのだった。
 この物語では暦法を修めた侍の、国を、そして民を思う姿が描かれています。改暦のあるべき姿を説く下級武士の姿は、剣を取らない侍の戦いであり、読む者の心に迫ります。そして、小の月を覚えるために考案されたごろ合わせの「西向く侍」という言葉に、隠された思いを込めた作者の手腕は、いまさらながらに見事です。

「遠い砲音」 新政府の近衛砲兵の陸軍中尉である土江彦蔵は、近衛将校に下賜された西洋時計を読み取ることにも苦労するほどだったが、歩兵と砲兵との合同訓練において砲撃停止時間を間違え、味方歩兵の頭上に砲弾を落としてしまうのだった。
 本編は新政府採用の新しい時刻に関する定めの物語です。日の出とともに一日が始まり、日没とともに一日が終わっていた従来とは異なり、一日が24アウワーズに分かれ、更にミニウト、セカンドと区分けされた時の流れに支配される暮らしに慣れない侍の悲喜劇です。

「柘榴坂の仇討」 桜田門外にて井伊大老が討ち果たされてから十三年の歳月が過ぎようとしている明治も六年、井伊大老の御駕籠周りを警護していた金吾はやっと仇のひとりを見つけ、その男が車夫をしている車に乗り込むのだった。
 物語は単純で、井伊直弼の警護に失敗した男の仇討の物語です。しかし、そこに至るまでの二人の様子が簡潔に語られ、いざ対峙した時の二人の様子が、浅田次郎の名調子で語られます。その余韻はさすがに浅田次郎とつい唸ってしまいそうな心地よさです。本編は中井貴一と阿部寛で映画化され話題になりました。まだ見ていないのですが、本作を読んで早く見たいとの思いを更に強くしました。

「五郎治殿御始末」 岩井五郎冶は、御一新後の旧藩士たちを馘首する役目の後、明治四年の廃藩置県でのお役御免で生きる糧を失い、孫の半之助と共に自刃しようとする。しかし、とある人物に助けられ、半之助の身を預け、自らは行方不明となるのだった。
 維新の後の侍の心に秘めた思いを貫こうとする生き方が語られている本書ですが、この物語も心に染みる仕上がりとなっています。読後にもたらされる余韻は他の作者にはないものがありますね。

浅田次郎という作家は何故にかくも読者の琴線に触れる文章を紡ぎだすのがうまいのでしょうか。何度か書いたように、その根底には河竹黙阿弥の台詞回しに通じるものがあり、日本人の心に迫るリズムを体得されているのでしょう。

勿論私は河竹黙阿弥の台詞回しを詳しくは知るものではありませんが、伝統の中に息づいている現代歌舞伎の根底をなすものであることは知っています。七五調で、『白波五人男』に代表される台詞回しと言えば分かりやすいかもしれません。

本書は明治維新後の侍、様々な制度の変更についていけない侍の姿が描かれています。それは、既存の建物の破壊であり、暦法や時制の変更、仇打ちの禁止などであり、そのそれぞれの物語が語られているのです。

やはり浅田次郎はいい、そう思わせてくれる一冊でした。

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