浅田 次郎 お腹召しませ


第1回中央公論文芸賞と第10回司馬遼太郎賞を受賞した作品で、全六篇の短編小説賞です。

本書の構成はちょっと変わっていて、著者と思われる人物が、自身の祖父が語った話や自らの現代世相を憂える思いなどを前フリとして御一新の頃の侍の話を語る構成になっています。祖父から聞いた話に脚色を加え、多分浅田次郎本人が、現代と過去とに共通する、滑稽さの中にある一片の哀しみを漂わせた物語を語ります。

「お腹召しませ」 入り婿の与十郎が公金に手を付け、のみならず新吉原の女郎を身請けし逐電してしまった。高津又兵衛が腹を切ればお家は存続させてもらえるらしい。妻や娘も、又兵衛も四十五歳であり人生五十年まであと五年しかないのだから、死に処を得たと思って「お腹召しませ」と言うのだった。―――祖父が聞かせくれた昔語りをもとに著者が創作した物語。

「大手三之御門御与力様失踪事件之?末」 横山四郎次郎が行方しれずになった。御百人組の詰め所がある大手三之門は、三つの門と高石垣で密閉された空間であり、逃げ場はなく、神隠しにあったとしか言いようがない。しかし、五日後、横山が記憶喪失の状態で見つかった。―――携帯電話の普及によって無くなった父親の「自由」についての物語。

「安藝守様御難事」 芸州広島藩藩主浅野安芸守茂勲(もちこと)は、ひたすらに斜籠(はすかご)の稽古をしなければならなかった。何故にこのような稽古が必要なのか、誰も教えてはくれない。そのうちに、老中の屋敷での斜駕籠の披露をすることとなった。―――たとえ必要悪でも悪を悪と認識して、一種の儀式にしてしまう二百六十年余の政治体制への畏怖もあり、浅野茂勲の回顧譚から作者が創作した物語。

「女敵討」 奥州財部藩士の吉岡貞次郎のもとを、旧知の間柄である御目付役の稲川左近が訪ねてきた。貞次郎の妻が不貞を働いているのですぐにでも女敵討をせよという。江戸での妾との間に子まで為している貞次郎は、女敵討のために帰郷するが・・・。―――名簿で見つけた「貞」の文字から紡ぎだされた物語。

「江戸残念考」 大政奉還も終え、鳥羽伏見の戦いも負けて、兵を置いたまま徳川慶喜は一人江戸へ帰ってきた。御先手組与力の浅田次郎左衛門を始めとして、江戸の御家人たちの間では「残念無念」の言葉しか出てこないのだった。―――著者が幼いころ「チャンバラ」で遊んだとき発していたセリフ、「残念無念」を思う中から紡ぎだされた物語。

「御鷹狩」 檜山新吾ら前髪も取れていない若者三人は、官軍の錦切れどもに抱かれている夜鷹を切り捨てようと、夜中、家を抜け出した。夜鷹狩りを御鷹狩りと言いかえつつ、勢いで切り殺してしまう。―――さまざまな欲望を持つ青春時代。若いころフーテン狩りをしていた筆者の思いは祖父から聞いた「御鷹狩」という言葉と結びついた。

全体的にコメディとは言わないけれども、端々にコメディとしか言いようのない可笑しさを含みながら、浅田次郎の特徴でもある、真摯に生きる人間の哀しみを漂わせた作品集として仕上がっています。侍としての路の行きつく先にあるのだけれど、人間としての在りようには反するおこないをしなければならないときに思わずとってしまう振舞いは、読み手の琴線に触れ、コメディ的要素の裏側にある哀しみを浮かび上がらせています

どの物語も、話が終わった後には現代に生きている著者が話をまとめています。そのまとめの中で著者は、それまで語ってきた物語は自分の創作だとか、物語の中で語りきれなかった登場人物のその後などについて考察したりと、なかなかにユニークです。そうした余分とも言えそうなエピローグについて、このまとめは不要だと言う人もいるかもしれません。物語は物語として説明するのは野暮だという意見もあるでしょう。しかし、個人的には、この「まとめ」が個々の物語をうまく締め、短編自体が生きてくると感じ、やはりうまいものだとうなるしかないのです。

梶 よう子 ヨイ豊


幕末から明治初期の市井の様子を交えながら、浮世絵が忘れられていく姿が丁寧に描かれている長編小説です。第154回直木賞の候補作品です。

三代豊国が逝き、歌川門を率いる四代豊国を誰が継ぐかが関心の的だった。二代目歌川国政を経て二代国貞を継いでいる清太郎は、弟弟子の八十吉の実力こそが相応しいという本心と共に、八十吉に対する妬心もあって自らが継ぐとは言い出しかねていた。そうしているうちに時代は移り明治の世となり、江戸は見る間に無くなっていくのだった。

本書の主人公は二代国貞の清太郎という浮世絵師です。この男の絵師としての心意気、弟弟子への嫉妬などの浮世絵に対する思いを、これでもかと言わんばかりに追及し、描写してある力作です。

代わりに、エンターテインメント小説としての起伏のあるストーリーはありません。勿論、消えゆく絵師たちの動向、幕末から明治初期にかけての市井の様子、錦絵の世界に関心がある人には、それなりの展開のある物語と言えるでしょうが、それ以外の人にはいわゆる面白みには欠けると映るのではないでしょうか。

私も序盤途中まではこの作家にしては今一つ好みに合わないかと思いながら、それでも直木賞の候補作なのだからと言い聞かせ読み進めました。しかし、本書の性格、内容が把握でき、主人公の浮世絵そのものに対する思い、そして浮世絵を描く自らの力量について煩悶が少しずつ分かってくるにつれ、この物語に引き込まれていました。

「浮き世は憂(う)き世。はかなく苦しい現の世なら、憂(うれ)うよりも、浮かれ暮らすほうがいい。極彩色に彩られた浮き世の絵は、俗世に生きる者たちの欲求そのものだ。」というのは本書冒頭で書かれている文言です。続いて「卑俗で、猥雑で、美しい」のが浮世絵であり、禄をはむ奥絵師や本絵師などとは異なり、「刹那に浮き世を描くのが町絵師だ」ともあります。

物語全般がこの絵師の心意気で彩られ、そして終盤、本書の「ヨイ豊」というタイトルが深い意味をもって読者に迫ってくるのですが、併せて、失われていく江戸の町を哀しみながら「江戸絵」を書きたいと言う絵師たちの言葉は、深く心に染み入ります。

主人公の清太郎の師匠である三代歌川豊国という人は、歌川門の中興の祖と言われるひとで、美人画・役者絵は抜きんでていたそうです。後に四代豊国を名乗る清太郎は、その力量において三代には遠く及ばないというのが一般の評価で、その事実が本書の主題ともなっています。

本書ではもう一人、八十吉という弟弟子が登場します。三代歌川豊国に一番近いという実力の持ち主で、その奔放さに振りまわされる清太郎です。この男が後の豊原国周で、この名前も物語上大切な意味を持ってきます。

八十吉が鳶と役者のけんかに巻き込まれ、師匠の三代豊国から「国周」というその時の画名の使用を禁じられる場面があります。その時清太郎が八十吉のために師匠に土下座をして画名を取り戻すことを頼みこむのですが、ここでの描写にはせつないものがあります。「八十吉がいなくなれば、どこかでほっとする自分がいることも感じている。・・・だが、あいつは歌川にいなきゃあならねえ」と思うのです。

本書は文体としては三人称の物語なのですが、全般的に視点は清太郎であり物語全般が清太郎を中心として回っています。また、激動の明治維新期という歴史の一大転換点において、その事実は物語の背景で触れられるだけです。一般市民の生活はそうした事実とは無関係に営まれているのです。。

芸事の、難しい世界を描いた読み手の心に深く迫る佳品だと深く思う一冊でした。

蛇足ながら、本書の装画・挿絵を描いている一ノ関圭氏は、昔ビッグコミックという雑誌で何度か読んだ人です。思いもかけずこういう形で見かけるとは思いませんでした。画力の高さには定評のある作家さんで、浮世絵氏の物語も書かれていた記憶があります。

高田 郁 天の梯(かけはし) みをつくし料理帖


みをつくし料理帖シリーズもついに本作品が最終巻となってしまいました。全十巻のこのシリーズは、ひたすらに料理の道に精進する一人の娘の成長物語でもあり、人情物語としても、物語の厚みを求める方には物足りないかもしれませんが、一級の面白さをもった小説です。

『食は、人の天なり』――医師・源斉の言葉に触れ、料理人として自らの行く末に決意を固めた澪。どのような料理人を目指し、どんな料理を作り続けることを願うのか。澪の心星は、揺らぐことなく頭上に瞬いていた。その一方で、吉原のあさひ太夫こと幼馴染みの野江の身請けについて懊悩する日々。四千両を捻出し、野江を身請けすることは叶うのか!?厚い雲を抜け、仰ぎ見る蒼天の美しさとは!?「みをつくし料理帖」シリーズ、堂々の完結。(「BOOK」データベースより)

最終巻である性質上、当然のことではありますが、前巻同様に澪に対する障害となる事件は起こりません。と、こう書くと物語の筋をバラしていることになるので、本来は書いてはいけないのでしょう。しかし、本シリーズの終わりにむけてどのように決着をつけていくのか、が物語の主眼でしょうから、これくらいは良いかな、と自己弁護です。

ともあれ、澪の夢であるあさひ太夫こと野江の身請け話はどうなるのか、また念願の「天満一兆庵」の再興はどうか、など期待は膨らみます。

第一巻を読んだのが2009年の10月13日だとメモにありました。そして今日2016年1月25日までほとんど6年半をかけて全十巻の物語を読み終えたことになります。至極良質の心に響く物語でした。料理が好きで、自ら料理を作ることが好きな方ならば更に面白いと思える作品ではなかったかと思います。

高田郁という作者は一方で『あい』のような、読み応えのある作品も書かれています。でも、本作のような更に読みやすい作品でも作者の優しい目線は失われてはいません。

読んでいる途中では小さな喜びをもたらしてくれ、あとには爽やかな読後感が残ります。主人公の内面を、的確な情景描写と、独白のような一人称で表現するこの人の文体は、とても心地よく読むことができました。

高田郁という作家の次の作品を期待したいと思います。

ジョン・ヴァーリイ ティーターン

写真はありません。

もう30年以上も前に読んだこの本ですが、再読してみました。女船長のシロッコを主人公とするこの物語は、「八世界」シリーズで有名なジョン・ヴァーリイの、冒険小説と言ってもおかしくないSF小説です。

土星の近くで新たな衛星を見つけ、接近してみるとそれは車輪状の構築物だった。探索のために近づいたシロッコたちはその衛星に飲み込まれてしまう。目覚めると、そこは超巨大な車輪の内部であり、見知らぬ生物が闊歩する世界だった。

以前読んだブライアン・W・オールディスの『地球の長い午後』と同様の、異世界を舞台とする冒険小説、とも言える作品です。

『地球の長い午後』は遠い地球の姿を描いた小説でしたが、本作品は舞台そのものが異星人の構築物なのです。それも土星の衛星ヒューペリオンの軌道の内側に二点で接しようとし、その内側にある衛星ティターンの軌道を横切る軌道を持つ、直径が1300Km、外周が4000Kmにもおよぶ巨大なリング状の構築物です。

ヴァーリイの小説らしく、主人公は女性です。それもリーダーとしての資質を十分に備え、冒険心に満ち溢れた女性として描いてあります。その主人公を船長とする「リングマスター号」ごと、テミスと名付けられた構築物に飲み込まれてしまいます。

そこから先は、以後「ガイア」と呼ばれるこの構築物の内部を、同時に飲み込まれた他の6名の乗組員を探しながら、更にこのガイアのハブ部分にいるであろうガイアの創造者に会うべく探検していくのです。途中、飛行船にも似た空中浮遊生物や、ギリシア神話のケンタウロスに似たティーターニス、天使そのままの姿をした生物などガイア独自の生物に遭遇しつつ、天に向かってそびえるケーブルを伝い、ハブを目指します。

「戦い」「戦争」といった人間の闘争行為に対する、揶揄とも思えるあからさまな設定を持つこの物語は、本書に続く第二部でも「争い」の醜さを示唆しているそうです。作者の本作品を書いた意図の一端はこうしたところにもあるのかもしれません。

本書はハードSFなのです。しかしながら、内容はファンタジーとも言える冒険譚になっています。SF好きでなければ決して手に取ることもないであろう作品ですが、本書に続く第二部、第三部で物語は更なる展開を遂げる、のだそうです。残念ながら続編は読んでいません。第三部は日本語への翻訳すら為されていないようです。でも、いつか第二部は読んでみたい作品です。

蛇足ながら、本書の中で「十二番目の衛星を見つけた」との台詞があります。ところが、ウィキペディアによりますと「2009年10月までに、土星には64個の衛星(うち3個は不確実)」があると記載してあるのです。本書が刊行された1979年頃の情報はそうだったのでしょう。ちなみに、私の手元にある文庫本は3版で1983年3月25日で、初版の刊行日は1982年7月23日です。

野口 卓 ご隠居さん


これまでの作品とはかなり趣の異なった、しかしながら実に面白い小説でした。「三猿の人」「へびジャ蛇じゃ」「皿屋敷の真実」「熊胆殺人事件」「椿の秘密」「庭蟹は、ちと」の六編の連作短編からなっています。

腕利きの鏡磨ぎである梟助じいさんは、落語や書物などの圧倒的な教養があり、人あたりもさわやか。さまざまな階級の家に入り込み、おもしろい話を披露し、ときにはあざやかに謎をときます。薀蓄は幅広く、情はどこまでも深い。このじいさんの正体やいかに…。江戸の“大人”を描く、待望の新シリーズ誕生!(「BOOK」データベースより)

まずは主人公の梟助じいさんの職業が「鏡磨ぎ」と、これまでとはかなり趣が異なっています。更にはこの梟助じいさんがかなりの博識で、しゃべりもうまいのです。そのために様々な得意先が梟助じいさんと話すのを楽しみにしています。このかなりの「博識」の中に、落語にも詳しい、ということがあります。落語家の柳家小満んさんの「あとがき」にも書いてあるように、この設定は旗本や大店、お妾さんに至るまで「あらゆる階層の老若男女と接することができる」のです。

最初の「三猿の人」は、本書の主人公の梟助じいさんの紹介を兼ねた物語です。双葉屋の内儀が梟助じいさんのことを何も知らないので推測していくのに合わせ、梟助じいさんの仕事である鏡磨ぎの説明、当時は鏡には主鏡、合わせ鏡、懐中鏡の三点がセットになっていたこと、鏡そのものの製造方法などが語られていきます。加えて、「土用の丑の日の鰻の意味」について問われ、そのまま「鰻の落とし話」を語るのです。

この「三猿の人」に続いて「へびジャ蛇じゃ」を読んでいるときは、これは著者の落語に対する知識や当時の生活についての博識ぶりは分かっても、物語としては外れかもしれない、などと思いつつ読み進めたのです。

しかし、三話目の「皿屋敷の真実」あたりから風向きが変わってきました。この話は瀬戸物商但馬屋の、嫁いでそして出戻ってきた娘真紀の話ですが、人情豊かな風合いが加味され、暖かな心映えになる話として仕上がっています。合わせて高名な怪談話の「番町皿屋敷」をめぐるトリビアともなっています。

そして、「熊胆殺人事件」では捕物帳の趣を楽しみ、「椿の秘密」に至っては「八百比丘尼」の物語を絡めたファンタジーとなり、共に人情話としての物語として一級の楽しみを得ました。

とどめは最後の「庭蟹は、ちと」です。この話では、これまで皆がその正体を探ろうとして失敗してきた梟助じいさんの正体が明かされます。そして、極上の人情話が語られます。

本書について、「『ご隠居さん』を読んだときの驚きは、「時間でもつぶしていくか」と気軽に寄席に入ったら、泣きながら寄席を後にした――そんな体験と似ている。」と文藝春秋の本の話WEBに書いているのはスポーツライター・ジャーナリストの生島淳氏です。若干大げさかとも思うのですが、本書を読み終えたときほどの喜びはめったにあるものではありません。

私自身、一時期は落語にはまり、古典落語をテープでで聞きまくったものです。(実際に高座に行き、本当は作者も言うように、その目で、その耳で落語家の演じる総合芸を堪能するべきなのでしょう。)だからかもしれませんが、本書を読み終えたときの喜びは、本書自体に対する感動と、思いもかけず良い本に出会った幸せとを併せ持った喜びなのです。

こうして読了後は早く続きを読みたいと欲しているのです。

津本 陽 虎狼は空に―小説新選組(上・下)



これまで読んだ新選組の物語の中では異色の作品です。

剣戟の場面に強い津本陽という作家の個性がそのままに出た作品と言えます。他の幾多の新選組の物語に描かれている「情」の側面は切り捨てられており、かつて言われていたような殺人集団としての新選組として描かれています。

ここでの近藤や土方は上昇志向の強い田舎者ではなく、攘夷の意思を持った佐幕派の集団としての新選組を率いています。剣の腕は立つけれど爽やかな好青年として描かれることの多い沖田総司も、人切りの達人としての顔が強調されているのです。そのほかの隊員についても同様のことが言えます。

物語の進み方についても同じです。新選組結成時の殿内義雄一派の粛清から芹沢鴨一派の暗殺へと続く流れも、近藤勇を担ぐ土方らの策謀による排除工作の結果のこととして描かれています。その時々の人物の主観については他の作品のようにはあまり触れられてはいません。

また、芹沢鴨の暗殺事件のときは凄惨な殺人現場を詳細に描写しているのですが、土方や沖田との心の交流を絡めて描かれることの多い山南敬助の脱走事件は事実を述べるにとどめ、その解釈は読者に委ねられているのです。

剣戟のリアリティに満ちた表現を少しだけ引用すると、新人隊員を真剣に慣れさせるための闇夜の刃引き稽古の場面では、「稽古のあと、額にくいこんだ刃こぼれの鉄片を毛抜きで抜かなければ、顔も洗えない」ほどだと書いています。

また、何者かが三条大橋橋詰の立て札を河原に捨て去った事件での犯人との闘争の場面では、「乱闘の場では、死力をふるっての刃先に触れた敵味方の指が散らばっているそうである。往時の侍たちが斬りあいの場に及ぶときの鉢巻」は、「手ぬぐい」で「両耳をなかば覆って」「わが耳を削ぎ落とさない用心」をした、などと、本当の斬りあいの場面はそうではあるのだろうけれど、リアリティに富み過ぎている描写もあります。

新選組にまつわる様々の出来事についても独自の解釈はあまり無く、従来の説と異なる解釈があったにしても、単に事実として述べられているだけです。

例えばはっきりと年月まで明記してある出来事として沖田総司の発病があります。本書では慶応三年二月と明記してあります。慶応三年二月というのは、天然理心流門人だった小島鹿之助という人の『両雄実録』に記されている時期だそうですが、単に年月が明記してあるだけです。この沖田の発病に関しては、一般的には子母沢寛の『新選組始末記』に由来するであろう池田屋事件のときの喀血シーンが有名でしょう。

私のような乱読、雑読派の人間には面白い小説ですが、痛快時代小説や青春小説、歴史小説としての新選組ものを期待する読者には向いていないと思われます。それほどに殺伐とした、剣戟中心の新選組作品です。

海堂 尊 ナニワ・モンスター


いわゆる桜宮サーガに位置づけられる物語です。つまりは「このミステリーがすごい!」大賞を受賞したチーム・バチスタの栄光の世界観を持った物語です。

世界的に新型インフルエンザ「キャメル」の猛威が伝えられ、政府による水際作戦が敷かれる中、浪速府で第一症例が報告された。早速、浪速府に経済的な打撃が加えられるが、浪速府知事の村雨弘毅は対抗策を打ち出す。そこに噛んでくるのは、「医療界のスカラムーシュ」という異名を持つ、村雨浪速府知事の陰のブレーンである彦根新吾であり、浪速地検特捜部副部長の鎌形雅史であった。

海堂尊の小説には、二つの系統があるように感じられます。その一つは作家名を海堂尊という医者のオートプシー・イメージング(Autopsy imaging、Ai、死亡時画像病理診断)にかける思いを込めた作品群と、それ以外の作品群です。そして、前者、Aiへの思いを込めた作品群は、それ以外の作品群があまりに面白いのに比べ、作者の頭の良さが空回りしてか、Aiありきの強引な話にしか思えません。残念ながら、本書もその中に入る作品でした。それ以外の作品の面白さを知っているだけに非常に残念です。

本書は三つの章からなっています。まず「第一部・キャメル」はかなり面白い物語との印象から始まりました。新型インフルエンザ「キャメル」のパンデミックを思わせる物語の展開は、浪速の町の日常と非日常とをうまくかき分けて描写してあり、パニック小説のイントロとして素晴らしく、かなり期待できると思いながら読み進めました。ここまでが2009年2月から2009年5月までのお話です。

おかしくなったのは「第二部・カマイタチ」からです。話は2008年の6月へと一年ほど遡り、同時に舞台は東京地方検察庁へと移ります。そこでは東京地検特捜部のエースと目されていた鎌形雅史の浪速地検特捜部への移動の話が持ち上がっていました。鎌形検事の浪速転勤に伴い、浪速府の村雨知事と彦根の思惑は鎌形の取り込みを図ります。

そして「第三部・ドラゴン」で、本書の本体であるAiの話へと展開します。ここでは日本の現体制そのものへの変革の話まで膨らみ、物語は当初のよくできたパニック小説という雰囲気から、とんでも話へと一大転換してしまうのです。

かつて海棠尊の『ノセント・ゲリラの祝祭』を読んだときの、論理の空回りとしか思えない物語展開に驚いた記憶が蘇りました。強引としか思えないその物語は作者のAiへの熱い思いは伝わるものの、物語としては決してよくできたとは言えない作品でした。本書も残念ながら同様なのです。「第二部」で登場した鎌形雅史など、かなり意味ありげな強烈なキャラクタとして現れたのですが、結局はその与えられた存在感を発揮しないままで終わってしまいました。

詳しく書くとネタバレになり書けません。いや、詳しく書こうと思っても本書で展開される論理についていけない私では詳しく書く力がないと言うべきなのでしょう。ということで、ぜひ自分で読んで確かめてください、とも言いにくい作品でした。

逢坂 剛 禿鷹狩り 禿鷹4(上・下)



禿鷹シリーズの最終話です。意外性満載の展開になりました。

あんたの仕事は、ハゲタカを消すことにある。そう、神宮警察署の悪徳刑事・禿富鷹秋を狩り立て、この世から抹殺するのだ―ヤクザも南米マフィアも手玉にとるあの極悪刑事の前に、最強の刺客が現われた。巧妙に仕掛けられた執拗な罠を、果たして潜り抜けることは出来るのか!?(上巻)
渋六興業と禿富鷹秋の癒着関係を暴き、警察組織から追い出しにかかる―ハゲタカを執拗に追い回す敵は、同じ神宮署生活安全特捜班に所属する、屈強でしたたかな女警部、岩動寿満子だった。寿満子は渋六の野田に、チャカ五挺と引き換えにある裏取引を持ちかけるが…稀代の悪徳刑事を衝撃のラストが待つ。 (下巻)
(「BOOK」データベースより)

ハゲタカを演じるとしたら誰だろうと思いながら読んでいました。思いついたのが、ベタなところで遠藤憲一。一昔前では強面というだけで室田秀夫や、ちょっと優しい面もあるけど川谷拓三も良いかななどと思っていました。しかし、解説を読んで驚いた。リチャード・ウィドマークだとは思わなかった。

シリーズ当初は渋六興業と禿富鷹秋対南米マフィアのマスダという構図だったのですが、シリーズが進むにつれ、警察内部の対立に重点が移ってきました。そして本書。とうとう、マスダは重要ではありますが、脇役に回ってしまいます。

代わって登場したのが、神宮署生活安全特捜班所属の警部岩動寿満子です。この女が女版ハゲタカとも言うべき存在であり、禿富刑事と渋六興業の水間や野田らの前に立ちふさがります。岩動警部とコンビを組まされている嵯峨俊太郎警部補もミステリアスな雰囲気を持っていて、魅力的です。

本書においても、物語の軸として描写されることが多いのは相変わらず水間です。実際は禿富刑事が状況を仕切る結果になってはいくのですが、舞台は水間の視点で語られる場面が多いのです。しかしながら、禿富刑事の存在感が圧倒的なので、水間も野田も、勿論その他の登場人物も、禿富刑事の動きに振り回されていくのはこれまでと同様です。

しかし、禿富刑事を鏡に映しだしたような岩動寿満子の登場は、本作をこれまでのシリーズとは異なる物語としています。マスダが脇に回ったということです。

そうした二人の対決場面の、下巻に入っての禿富刑事と岩動寿満子との取調室でのせめぎ合いは圧巻です。二人がそろうと、やはりその存在感においてハゲタカのほうに軍配が上がるのは仕方がありませんが。

その後、終盤に向かって物語は加速し、衝撃のラストへとなだれ込みます。

そして、意外な結末のあとに、更に新たな事実が判明し、ある人物の独白で物語は終わりますが、この独白の意味をどう解釈していいのか、迷っています。受け取り方次第では、更に明かされた事実と合わせて禿富刑事の築き上げられてきた印象も変わるし、ということはこのシリーズ全体のイメージも大幅に変わってしまうからです。

このあとに外伝があるそうなので、そこで明らかにされれるのでしょうか。

高田 郁 美雪晴れ―みをつくし料理帖


このシリーズも余すところあと一巻となってしまいました。丁寧に紡がれた文章は変わらず、決して派手さはないけれども、読み手の心にゆっくりと染み入ってくる作品です。

名料理屋「一柳」の主・柳吾から求婚された芳。悲しい出来事が続いた「つる家」にとってそれは、漸く訪れた幸せの兆しだった。しかし芳は、なかなか承諾の返事を出来ずにいた。どうやら一人息子の佐兵衛の許しを得てからと、気持ちを固めているらしい―。一方で澪も、幼馴染みのあさひ太夫こと野江の身請けについて、また料理人としての自らの行く末について、懊悩する日々を送っていた…。いよいよ佳境を迎える「みをつくし料理帖」シリーズ。幸せの種を蒔く、第九弾。(「BOOK」データベースより)

これまでと変わらずに四つの章から成っている本書は、常のような大きな難題はなく、それどころか天満一兆庵のご寮さんであった芳の祝言が挙げられたりと、シリーズの終わりを迎えるにあたり、登場人物の周りもそれなりの落ち着きを見せ始めています。

勿論、澪も自らの行く末について悩んではいるのですが、これまでの奈落の底に突き落とされるかのような大事件による悩みではありません。料理人としての成長に結びつく懊悩であるところがこれまでとは異なります。

芳がいなくなり、澪自らも「つる屋」から旅立つ日が近くなり、作者の筆も将来への描写が目立つようです。

同じ市井の人情物を描く作家でも、宇江座真理のように比喩を多用し情感豊かに描く出す文章とは異なり、高田郁という作家の文章は決して美文とは言えないと思います。しかし、人物の内面を独白や地の文でていねいに描き出すその手法は、同様に心に染み入ります。

アクション性の強い冒険小説や人が簡単に切り殺される剣戟場面の多い時代劇などを続けて読んでいると、本書のような心が温かくなる作品を読みたくなり、読み終えると、実際ホッとするのです。

残り一巻となったこのシリーズは、やはり読後は心温まるものでした。

野口 卓 隠れ蓑: 北町奉行所朽木組


北町奉行所朽木組シリーズの前作『闇の黒猫』に続く第二弾で、二作目ということで慣れてきたものか、前作よりは面白かったように感じました。

「門前捕り」 新任の同心である名倉健介は「門前捕り」を任されるが途中で泥坊を取り逃がしてしまい、腹を切ることになってしまう。面目にかけて賊を捉えなければならない町方だったが、朽木勘三郎も朽木組を挙げて探索に乗り出すのだった。

江戸時代、武家屋敷内で泥坊を捕らえたときは、門前で待つ町奉行の配下に突き出し、町方は「召し捕った」などと、大声をあげ、芝居がかりに逮捕したそうで、これを「門前捕り」と言ったそうです。武家屋敷と町方では警察権の管轄が異なっていて、町方を取り締まる町奉行所の役人を屋敷内に入れないための処置を言います。

本作では、これからもシリーズに顔を出すであろう勘三郎の藤原道場での後輩の北村太一郎が、屋敷内で泥坊を捉まえた侍として登場します。

「開かずの間」 勘三郎の配下である岡っ引きの伸六は、手下の弥太の相談に乗った。弥太の幼馴染である下り酒問屋和泉屋のひとり息子文太郎が、女の幽霊の「・・・恨みを晴らすときが来た。和泉屋を滅ぼしてやる。・・・」との言葉を聞き、寝付いてしまったという。弥太が調べた結果を聞きながら、伸六は一つの結論を得る。

この話では勘三郎はほとんど顔を出しません。代わりに、伸六がまるで安楽椅子探偵のような立場で事件を解決するという、少々変わった雰囲気の捕物帳です。また、本作は弥太の幼い頃の話をも示していて、弥太の育ちを説明する作品にもなっています。

「木兎引き」 千八百石旗本大久保家の隠居、主計(かずえ)は小鳥を育てることに執着していた。その主計が「ズク引き」というミミズクをおとりにして小鳥を捕らえるところを見ようと言う。餌刺(えさし)の手引きで「ズク引き」を見ることになったが、そこに珍しい鳥がかかり・・・。

鷹狩りの鷹の餌にする小鳥を捕らえる鳥刺しのことを「餌刺(えさし)」と言うそうです。この作者の人気シリーズの『軍鶏侍』では軍鶏の生態が詳しく述べられていますが、本作品では江戸期における小鳥の飼育に関して種々の知識が記載されています。捕物帳というよりは、「ズク引き」を中心とした小鳥に関するトリビア的知識の作品です。

「隠れ蓑」 北村太一郎が、勘三郎が藤原道場時代に免許皆伝を巡り遺恨のあった小池文造を見かけた、との知らせを持ってきた。非常に荒んだ雰囲気だったという。そのころ、主人や奉公人は勿論、腕の立つ用心棒まで殺すという賊を追い掛けていた勘三郎だったが、小池文造を見かけたという見世物小屋を調べさせるのだった。

藤原道場時代の性格に問題のある部屋住みの同僚、という設定は特別なものではないのですが、その後の探索で浮かび上がってくる小池文造の様子は普通ではありません。いや、小池文造は普通なのです。普通であるところが、物語としては普通ではないのですね。そうした矛盾を抱えた小池について、勘三郎は「人というものがわからなくなった。」と伸六に一人ごちます。

本作品を読むと、北町奉行所朽木組シリーズとしての世界観がはっきりとしてきたように思えます。

第一巻ではまだ本シリーズの性格が不明で、これまでの捕物帳とは少々異なる印象、チームとしての朽木組を前面に出した作品という程度の印象しかありませんでした。

しかし、『軍鶏侍』で見せた物語の情感、奥行きが本シリーズでも感じられ、次回作がとても楽しみになっています。単に、捕物帳としてではなく、勘三郎を中心とした朽木組というチームそのものが生き生きとして動き出している印象です。単なる捕物帳としての構成を超えたところで、物語としての面白さを発揮してくれるシリーズとして成長してくれることを期待できる作品だと思います。

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(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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