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佐藤 巖太郎 会津執権の栄誉


本書は著者にとって初の単行本でありながら第157回直木賞の候補作にノミネートされた、六編の短編小説からなる連作の時代小説集です。

本書の構成、及び各話の描かれている人物(視点の主)は下記のとおりです。

「湖の武将」 芦名家の重臣・富田隆実
「報復の仕来り」 芦名家家中・桑原新次郎
「芦名の陣立て」 金上盛備の家臣・白川芳正
「退路の果ての橋」 歴史上名を残すことはない足軽兵・小源太
「会津執権の栄誉」 会津の執権の異名を持つ芦名家家臣筆頭の金上盛備
「政宗の代償」 伊達家当主・伊達政宗

本書を読み始め、第一話の「湖の武将」を読み終えたところでは、新人らしからぬ重厚感ある文章と、でありながらの読みやすさとを感じていたのですが、物語としては少々半端ではないかの思いで読んでいました。

本書の惹句にあるような石田衣良氏の「この力量は本物だ!」との文言は何を言っているのか、との思いしかなかったのです。

しかしながら、本書を読み終えたとき、惹句の意味が良く分かりました。一話を読み終えたところでの印象は、本書が連作の短編集であることも頭にないままでいたところから感じた事柄であって、全部を読み終えた今では、第一話の意味もよく分かります。

例えば第二話で殺された侍の話は既に第一話の中で出てきているし、第一話の裏切りの話自体、本書全体を貫く一大事件であるのです。

四百年近く続いた名門芦名家が、奥州の伊達政宗に滅ぼされるに至る過程を五人の異なる目線で描きあげ、最後にその伊達政宗という人物、そしてその心の内を、秀吉との会見に至る中で描き出すさまは到底新人とは思えない筆致でした。

「摺上原の戦いの前後約4年を描いた」という作者の言葉の通り、すべての物語は芦名家滅亡の元となる「摺上原の戦い」へと収斂していきます。

十八代当主芦名盛隆が殺され、その後を継いだ亀王丸隆氏も三歳で病没し、ここに芦名家嫡流の男系の遺児が絶えてしまう。残された遺児の姫に他家から婿養子を迎えることになる。ここに、日立の佐竹義重の次男義広と伊達政宗の弟という家臣団の対立が生じてしまう。

結局、佐竹義広に決まるが、義広の補佐として乗り込んできた佐竹家の家老たちと芦名の古くからの家老達との軋轢が生じたのだった。

本書を読み終えると、芦名家滅亡という事件が、全体として多面的な俯瞰された事実として読み手の心の中に構築されていることが良く分かります。

その上で、芦名家を滅ぼした奥州の雄である伊達政宗が、更に日本全国をその手中に収めようとしていた豊臣秀吉の軍門に下らざるを得ないという戦国の世の厳然たる事実を、秀吉の北条攻めの折の会見という一事で示しています。

その文章の力を見ても、物語の構成を見ても、とてものこと新人の手になるものとは思えず、更なる作品を読んでみたいと思わせられる小説でした。

誉田 哲也 ケモノの城


誉田哲也の小説にはありがちな、とてもグロテスクな描写を含む、でありながらも面白さを持って迫ってくるミステリーでした。

ある街で起きた監禁事件。保護された少女の証言に翻弄される警察。そんな中、少女が監禁されていたマンションの浴室から何人もの血痕が見つかった―。あまりにも深い闇に、果たして出口はあるのか?小説でしか描けない“現実”がここにある―。圧倒的な描写力で迫る衝撃のミステリー。 (「BOOK」データベースより)

一人の少女が保護されたことをきっかけとして、彼女の言葉の通りにマンションを調べると数人分の血痕が見つかり、あまりにも凄惨な現状が浮かび上がってきます。

しかし、その少女も、またその部屋にいたもう一人の女も、なかなかこの状況について語ろうとはしません。それでも、根気よく続けた尋問の先に少しづつその実態が明らかになっていくのでした。

他にもグロテスクな描写の小説は読んだことはあるのですが、本書の場合ほどに読んでいてここまでグロテスクに描く必要があるのかと、何度も問いかけざるを得ない作品は無かったように思います。

本書の場合、人間が他者に対して行う非人間的行為の最たるものを見せつけられているようで、不快な感情すら湧いてきたものです。実に猟奇的な情景描写に辟易しながら読み進める作品でした。

そうした不快感こそ作者の計算としか思えないのですが、その読み手にわいてくる感情について、読者のミスリードを誘う「叙述トリック」の手法と考えてもいいものなのか、また、ここまでの猟奇性が必要なのか、読んでいる途中はもちろん、読み終えてからまでも考えてしまいました。

それほどに衝撃的です。この作者のこれまでの作品、特に姫川玲子シリーズの『ブルーマーダー』や『硝子の太陽Rouge』などで見られる人間の解体の場面を軽く超えた描写が続きます。

この手の小説が苦手な人には決してお勧めできない作品です。

困るのは、そういう作品でありながら、ミステリーとして面白いことです。刑事の取り調べの場面。その合間に挿入される一人の青年とその同棲相手、それに同棲相手の父親との間のドラマが実に効果的です。

この青年のドラマが、刑事達の捜査の進行にどのように絡んでくるのかという読者の関心を上手いこと引っ張りながら、クライマックスヘとなだれ込んでいき、最後に意外な結末が待ちかまえているのです。

矛盾するようですが、辟易するほどに人間の負の側面を見せつけられる作品ではあるのですが、それでもなお誉田哲也作品の面白さを更に認識させてくれる小説でもありました。

佐藤 正午 月の満ち欠け


新たな代表作の誕生! 20年ぶりの書き下ろし あたしは、月のように死んで、生まれ変わる──目の前にいる、この七歳の娘が、いまは亡き我が子だというのか? 三人の男と一人の少女の、三十余年におよぶ人生、その過ぎし日々が交錯し、幾重にも織り込まれてゆく。この数奇なる愛の軌跡よ! さまよえる魂の物語は、戦慄と落涙、衝撃のラストへ。 (内容紹介より)

第157回直木賞受賞作品です。

本書冒頭の場面で、小山内堅(おさないつよし)に、初対面であるらしい女の子が「煎茶とドラ焼きのセットにすればいいのに」と話しかける場面があります。読み手にとっては何のことなのか全く分かりません。また、主人公が抱えてきた荷物にも何らかの意味がありそうですが、読者には何も説明がありません。

こうして、何となく先行きが不明な、不安なままの出だしで、この作品が直木賞なのか、と疑問に思いながら読み進めたものでした。

そうこうするうちに、小山内の回想の場面に入ります。単に数字だけの章題に何なのか、と疑問を抱きながら読み進めると、どうも普通の小説とは異なります。小山内の妻が、娘の様子がおかしいと、七歳の娘瑠璃が、幼い子供が知る筈のない知識を持ち、知る筈のない過去の事実を知っていると言うのです。

そうこうしているうちに、この物語は輪廻転生をテーマにしているのではと分かってきて、そのころから物語の世界に魅せられている自分に気が付きました。

ここらの、日常を描いていた筈なのに、いつの間にか非日常の世界へと入り込んでいたという印象は、近年読んだ小説で言うと、先般読んだ森見登美彦の『夜行』と同じです。ただ、『夜行』のほうはホラーチックで、異世界に引きずり込まれそうな印象でしたが、本書にはそうした印象はありません。

小山内の次には三角哲彦(みすみあきひこ)についての、そして正木竜之介についての回想の場面が、読者の前に示されます。そしてそのたびに、章題もなく時計のアイコンの見出しと頁上部の時刻表示があるだけの、冒頭の小山内と女のことの三人の場面に戻るのです。

回想の場面に入るたび、この物語のテーマが明確にされていき、輪廻転生の物語でありつつも、それは深い愛の物語でもあることがはっきりとしてきます。

そこには正木瑠璃という女性の、「月の満ち欠けのように、生と死を繰り返」しあなたの目の前に現れる、という言葉が全てを物語っています。本当はこの言葉自体、ネタバレ的な要素を含むものであり、書くべきではないのかもしれませんが、本書の感想を書く以上は避けては通れない言葉だと思い、記します。

この言葉が記されている第8章は、本書の中でも殆ど80頁をとってあり、要の章でもあるようです。この章の前、第7章はそれに比して実質一頁分しかありません。「四隅の揃った書類束のような男の半生に、一年だけ無駄がある。」と述べ、つぎの第8章の展開へと導いています。こうした展開が上手いですね。

本書は全体的にその構成が見事だと感じました。輪廻転生という決してユニークではないテーマをここまで上手く展開させ、読者を引っ張る力はさすがにプロだと言うしかありません。

輪廻転生という言葉に自分の「生」そのものをすべてにわたって見直さざるを得なくなっている小山内。その心境は読者の心の片隅に芽生えている心象なのかもしれないと思っています。

恩田 陸 蜜蜂と遠雷


実在する「浜松国際ピアノコンクール」をモデルとする「芳ヶ江国際ピアノコンクール」という架空のピアノコンテストを舞台に、おもに四人のコンテスタント、つまりコンテスト出場者の横顔を描き出した青春群像小説で、第156回直木三十五賞および2017年本屋大賞を受賞した作品です。

とにかく、「芳ヶ江国際ピアノコンクール」での三次にわたる予選、そして本選においての、コンテスタントそれぞれの演奏の文章表現の見事さに圧倒されました。

それも、都合四回にわたるコンテストのそれぞれにおける多くのコンテスタントの楽曲ごとに、異なる表現で読者のイメージを喚起しつつ、演奏者の心象をも併せて表現しているのです。

その上で、二段組みで五百頁を超える分量である本書の最後に至るまで読者の関心を惹きつけるのですから、その筆力は推して知るべしというところでしょうか。

この作者の作品はこれまでに何冊か読んでいるのですが、その作風の多様さに葉驚かされます。青春小説があり、ファンタジーがあり、ホラーまでもあるのです。そして本書はまた異なります。ある種青春小説と言えるかもしれませんが、クラシックという音楽、それもピアノという楽器にその身をささげたピアニストらの物語であって、クラシック音楽に対する愛情があふれた物語なのです。

そして、本書は色々なクラシック音楽の紹介をしつつ、出場者であるピアニストの心象もまた深く描写してあります。それも、各予選段階と本選においての心象をもまたそれぞれに異なる筆致で表現してあるのです。

音楽の描写が為されている作品に出会うと常に思うことがあります。現実のピアニスト、音楽家というものは、曲のイメージをこのように理解、解釈するものなのかということです。

例えば、本書の高島明石がテーマ曲「春と修羅」のカデンツァ(自由に即興的な演奏をする部分)を演奏するときの表現などその典型だと思うのですが、宮沢賢治の代表的な詩をモチーフとした曲の解釈が光る場面です。実際にこうした視覚的な印象を持つものなのか、是非聞いてみたいものです。

この「春と修羅」のカデンツァに関しては、このあとに塵や亜夜のカデンツァの描写があります。120頁以上にわたり展開される第二次予選での注目点でもある三人の「春と修羅」の描写は読み応えがありました。

一方で、読者も音楽を理解する能力が要求されるのではないかと考えてしまいます。このブログでも数か所で記してきた疑問ではありますが、本書でもまたこうした疑問を持ちながらの読書になってしまいました。

このように文章の力を考えていると、結局は音楽、絵画等の芸術の分野に限るものではなく、音楽にしろスポーツにしろ、その時の人物の感覚を文字として表現している点では同じではないか、と思えてきました。作家の筆の力ということでしょう。

そして、本書については、作者の力量に対する称賛に尽きるといっても過言ではないと思える作品でした。

伊東 潤 池田屋乱刃


目次 「二心なし」福岡祐次郎 「士は死なり」土佐の北添佶摩 「及ばざる人」肥後の宮部鼎蔵 「凜として」長州の吉田稔麿 「英雄児」長州の桂小五郎

明治維新を語るとき、避けては通れない出来ごとの一つに「池田屋事件」があります。

この事件は、京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて孝明天皇を長州へと動座させ、『八月十八日の政変』で失脚した長州藩を中心にした新政府を樹立し、対外的独立を維持しようとする長州藩、土佐藩、肥後藩らの尊王派が、捕縛された古高俊太郎の奪還について話し合うために集まっていたところに、新選組が切りこんだ事件です。

本書はこの「池田屋事件」を、池田屋に集まった浪士個々人の目線で描きなおした意欲作で、かなり読み応えのある作品でした。

全部で五話からなる短編集ですが、第一話「二心なし」の福岡祐次郎と、「英雄児」長州藩京都藩邸留守居役の乃美織江はその名も知らない人物です。

第一話では、食い詰めていた福岡祐次郎が新選組に入隊したものの、間者として浪士の仲間に送り込まれ、宮部鼎蔵らの知己を得て、浪士らの情報を土方へと知らせることになります。しかし、浪士らと交流するうちに自らの内部で何かが変わっていくことに気づくのでした。

あまり世に知られていない浪士の姿を、作者の想像力で、哀切きわまりない物語として仕上げられている一編です。

そのほかの土佐の北添佶摩、肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿はよく知られた志士であり、第五話の乃美織江はまたあまり知られていない長州藩の人物ですが、話の内容は桂小五郎の物語です。

いずれも、これまでの多くの小説とは異なり、池田屋事件を志士の側から描いた作品です。これまでも個別を描く中でその一場面として池田屋事件が描かれることは多くありました。しかし、焦点を池田屋事件に合わせての志士目線での小説は無かったと思います。

そういう意味では観点がユニークです。なかでも第三話の宮部鼎蔵はわが郷土の偉人でありながらその実態は全くと言っていいほどに知らない人物なので、非常に関心深く読みました。

吉田松陰との交流、彼との奥州への旅などの簡単な事実は知っていたものの、清河八郎の誘いで一旦は国元で隠棲していたところを、再度告示に身を投じるようになったことなどは新たに知った事実です。

土佐の北添佶摩は坂本竜馬の物語を読むと必ずと言っていいほどに登場する人物であるし、長州の吉田稔麿にしても松陰門下生として当時を描いた小説には必ずと言っていいほどに登場します。

最終話の桂小五郎は、木戸孝允と称した後の時代も含めて司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を始めとする幕末ものには必ず登場する人物ですが、本書においては意外な人物として描かれています。また、木戸孝允と改名した理由についても触れられているところは面白く読みました。

ただ、江戸の三大道場の一つである練兵館の塾頭を務めるほどの剣の腕もあるなど、剣豪としての一面もある桂の描き方としては、本書での描き方には若干の疑問もありますが、これは好みの問題でしょう。

ともあれ、行きつくところは同じ場所池田屋であり、同じ場面をその話の主人公の視点で再度描くなどの構成は作家の想像力の面目躍如たる作品であって、なかなかに面白く読んだ作品でした。

ちなみに、本書も「新選組の本を読む ~誠の栞~」で紹介されていたので読んでみたのですが、「第二級活字中毒者の遊読記」でもかなり前に紹介されている作品でした。

米澤 穂信 折れた竜骨



ストーリーを一言でいうと、ソロン諸島の領主が殺され、領主の娘アミーナが騎士ファルクとその従士である少年ニコラの力を借りて、領主殺しの犯人をつきとめるという話です。

始めは本書をファンタジックな物語にミステリーの要素を盛り込んだ心躍る小説だと単純に思っていたのですが、本書をよく読んでみるとこれはいわゆる本格派のミステリーではないか、と思うようになりました。

本書が、実際に本格派のカテゴリーに分類されるものなのか否かは私にはよく分かりません。しかし、犯罪動機よりも、発生した事件にまつわる謎を探偵役が解き明かす過程に重きが置かれ、その謎を十全に成立させるための舞台背景を整えることが本格派の推理小説の大前提となるとするならば、本書はまさにそれに該当します。

そもそも、設定された謎のために設けられた舞台や謎ときの過程が現実感を欠くところに、私が本格派といわれる推理小説にのめり込めない原因があったのですが、本書の場合、その舞台設定に無理があるとは感じませんでした。

それは、中世の欧州、それも魔法と剣の世界を舞台にしているという点にその理由がありそうです。現実感のない設定である筈のところが、そもそも現実を無視した舞台なのですから当然です。

そして、この作者の『王とサーカス』という作品を読んだときにも思ったのは、米澤穂信という作家は、ミステリーを抜きにした純粋に物語作家としても素晴らしい才能を有している人なのだということです。

その面白い物語というのは、『インシテミル』でも感じたように、結局は、その小説が人間ドラマを盛り込んだ物語として成立しているかどうか、ということに帰着するようです。

そしてこの作家の作品は本書『折れた竜骨』も含めて物語として非常に面白いと言うわざるを得ないのです。

本書の場合、物語の面白さ加えて謎解きの要素が入っていて、第64回日本推理作家協会賞、第11回本格ミステリ大賞候補、第24回山本周五郎賞候補という受賞歴をもつほどですから、ファンタジー好きのみならずミステリーファンを惹きつけたというのはよく分かる話なのです。

佐伯 泰英 柳に風 新・酔いどれ小籐次(五)


新・酔いどれ小籐次シリーズの第五弾です。

新兵衛長屋界隈で、赤目小籐次を尋ねまわる怪しい輩がいるという。小籐次ネタを他所の読売屋にかすめ取られていた空蔵は、これは大ネタに化けるかもしれないと探索を引き受けた。そして小籐次と因縁のある秩父の雷右衛門が絡んでいると調べ上げたが、そこで空蔵は行方を絶った。空蔵の身に一体なにが?好調のシリーズ第5弾! (「BOOK」データベースより)

今回の酔いどれ小藤次は、新シリーズになる前の雰囲気に戻っています。違うのは、小藤次の活躍に加えて、息子駿太郎の活躍まで楽しめるというところでしょうか。

やっと望外川荘近くの寺の本堂という稽古場を見つけた小藤次と駿太郎でしたが、そこに寺の住職のもとにヤクザが押し掛けてきます。住職の思惑通り、そのヤクザを追い払う小藤次と駿太郎、そして二人の弟子たちでした。

一方、江戸の町の四か所で同時多発的に押し込み強盗が発生し、大金を強奪するという事件が発生します。何故か小藤次を恨み、敵と狙う押し込みたちでしたが、ネタに困っていた読売屋の空蔵はこの押し込みらの情報を仕入れようとして捕まってしまいます。

古巣の豊後森藩からの帰藩要請もあり、身辺が穏やかではない小藤次でしたが、自らへの火の粉を払う意味もあり、空蔵の救出へと向かうのでした。

相変わらず忙しくしている小藤次ですが、今ひとつ物語の芯が見えてきません。勿論、今のままの小藤次も痛快小説としてそれなりに面白いのですが、シリーズを通した大きな謎なり、敵なりが新しくなったシリーズですが未だに見えてきません。

もしかしたら、このままシリーズを通した大きなテーマというのはないのかもしれません。ただ、森藩と小藤次との関係がこのままとも思えず、この点が何らかの展開につながるのか、などと思っています。

畑野 智美 夏のバスプール


まさに青春小説と呼ぶべき、長編小説です。

夏休み直前の登校中、高校一年生の涼太は女の子にトマトを投げつけられる。その女の子・久野ちゃんが気になるが、仙台からきた彼女には複雑な事情があるらしい上、涼太と因縁のある野球部の西澤と付き合っているという噂。一方、元カノは湿っぽい視線を向けてくるし、親友カップルはぎくしゃくしているし、世界は今年で終わるみたいだし―。どうする、どうなる、涼太の夏!?胸キュン青春小説!(「BOOK」データベースより)

運動神経と、国語の成績は良いものの、数学や科学は赤点です。何しろ掛け算ができないのです。クラスというよりも学年で最下位に近い高校一年生の涼太。登校時にトマトをぶつけられた女の子に恋をしてしまいます。

同じ高校の同学年なのに顔を知らない、などと思っていたら、仙台からの転校生というのです。残念ながら、彼女は野球部の西澤と付き合っているらしく、西澤から彼女に近づくなと言われてしまいます。

親友の青野らの話では彼女は仙台で何かつらい目にあったらしいのですが、誰もそのことを教えてはくれません。

という話の運びは、青春小説ど真ん中の物語でした。『ふたつの星とタイムマシン』を読んだときも思ったのですが、この作者の文章は難しい単語は全く使ってありません。更に、短めの文章をたたみ掛けてくるその文体は、心地よいリズムで実に読みやすいものです。

本書に登場する高校は、中高大との一貫校らしく、それほど受験勉強に精を出さなくても、よほどのことがない限りは大学までは行けそうなのです。ところが、本書の主人公の涼太はその「よほどのこと」にあたりそうなまでに成績が悪いのですから始末に負えません。

でも彼に友達は多く、内部生、外部生、そして運動部系の区別なく声をかけられ、慕われています。この「内部生」「外部生」との区分けが良く分からないのですが、中高大一貫校なので、高校からの入学生を外部生として区別しているのだろう、と勝手に思っていました。

成績はよくないのだけれど、運動神経はいい主人公は、青野や望月といった仲間にも恵まれ、まさに青春を謳歌しているように思えます。この主人公の性格のよさなども、読んでいて心地よく、読みやすい理由の一つと思われます。

ただ、『ふたつの星とタイムマシン』のようなSF仕立てではないからなのか、仲間との関係性など少々腑に落ちない点も垣間見え、若干の物足りなさを感じたのも事実です。青春小説として、確かに読みやすく、そして面白い作品なのですが、もう一歩心に残らないのです。それは、主人公らの生活が、私らの青春時代とのあまりに違うことからくるのかもしれないし、もしかしたらこの作者の作風があまりに読みやすいことからくる思いこみなのかとも思ってしまいました。

西 加奈子 i(アイ)


2017年本屋大賞ノミネート作品になっている長編小説です。

「この世界にアイは存在しません。」入学式の翌日、数学教師は言った。ひとりだけ、え、と声を出した。ワイルド曽田アイ。その言葉は、アイに衝撃を与え、彼女の胸に居座り続けることになる。ある「奇跡」が起こるまでは―。「想うこと」で生まれる圧倒的な強さと優しさ―直木賞作家・西加奈子の渾身の「叫び」に心揺さぶられる傑作長編!(「BOOK」データベースより)

ただひたすらに主人公の心象を追いかけるこの物語は、個人的には好みではありませんでした。全編主人公のアイの視点で、なお且つアイの心象のみで構成されていると言ってもいいほどなのです。

主人公が、自分自身という存在について常に考察し続けている、ということは分かりますが、それは思春期に多くの人が通る事柄であり、その事柄を思春期という時期を過ぎても持ち続けてること自体に若干の違和感を持ちました。

勿論、そうした人の存在を否定するものではなく、そのような考えそのものを否定するわけでもありません。ことに、本書の主人公のように、シリアからの「養子」であり、更に親はアメリカ人の父親と日本人の母親という複雑さを持つ人物であればなおさら自分自身の存在について考えるでしょう。

特に青春の一時期、自分を見つめる時期においてはそうだと思います。一つの存在自体が他者に影響を及ぼすとき、その存在は他者への負の影響を負わねばならないのか、思春期の頃からの答えのない問題です。

しかしながら、物語の全編をその考察で占めるというのは、読んでいて疲れます。

また、アイには親友の権田美奈(通称ミナ)がいて、お互いに助け合っています。こうした存在自体はまさに得難いもので、そのような友を持つこと自体幸せだと思います。しかしながら、本書のような二人の設定は、どうも受け入れがたい自分がいて困ります。

ファンタジーやSF小説などは、どんなに荒唐無稽な物語でも違和感なく受け入れることのできる私ですが、人間存在についての真摯な考察という設定は、テーマがテーマであるからなのか、自分の環境に照らして異和感のあるものは受け付けないようです。

その意味では、先の自分自身の存在意義についての考察を持ち続けることと併せ、本書の主人公アイの生き方、考え方は違和感を感じるばかりでした。

ただ、本書の持つメッセージ性を否定するものではありません。こうした考察が非常に大切なことであることまでも否定するものではないのです。

本屋大賞ノミネート作品の候補作にもなっているこの物語ですので、わたしのような印象は特別なものだと思います。一般には、自分の生き方を真摯に見つめる主人公の、その心象を見事に描き出した小説、という評価になるのでしょう。

でも、個人的には、読んでいて楽しい、また幸せになるような、エンターテインメント小説をこそ探している身としては、本書のような物語は今ひとつ受け入れがたいのです。

結城 充考 アルゴリズム・キル


独特のSFっぽい雰囲気を持った、長編の警察小説です。

組織捜査を逸脱する行動が問題視され、所轄署の警務課に異動になったクロハ。内勤中心の日々は単調だが、ようやく慣れ始めた。しかし、身元不明で傷だらけの少女が保護され、未成年の不審死が連続するなか、クロハのもとにも、存在しないはずの少年に関する、「奇妙な噂」がもたらされる。独自調査をはじめるクロハだったが、彼女は常に誰かに監視されているような気がしてならなかった―。(「BOOK」データベースより)

久しぶりに読んだクロハシリーズでした。そのためでしょうか、どうも読んでいてリズムに乗れませんでした。

それは、一つには、期間が空きすぎたため、読み手の私はこの作品の基本設定を忘れているのにも拘らず、物語は既存シリーズの情報をそのままに、殆どの説明も無く進んでいくところにあると思われます。

そして、最大の理由はクロハの心象の描写に多くのスペースが割かれすぎていて、読んでいて違和感を感じてしまうからだと思われます。それは個人の好みに帰着する問題でもあるのでしょうが、これまでのシリーズでも同じタッチで書かれていたとは思えない印象を持ってしまったのです。

以前このシリーズを読んだときはこのような印象は無く、ただSFっぽい雰囲気を持った文章であり、独特なリズムを持っている作品だとのイメージのみがあったと思います。

本書でのクロハはその能力を買われながらも、所轄での仕事を懸命にこなそうとしています。ただ、捜査本部にいる自分をどうしても考えてしまうのです。

また、周りもクロハをほっておこうとはせずに、その能力を利用しようともします。そうした折に区役所の子供支援室からの、虐待の疑いのある少年の保護の立ち合いの依頼の電話を受け、その後の無戸籍児童の問題へと繋がっていくのです。

一方、未成年の不審な死が続き、クロハの属する所轄署に捜査本部が立つことになります。捜査本部にはかかわりの無い警務課員であるクロハは、捜査に携わることもできない自分の立場のままに、戸籍を持たないであろう社会的には存在しない扱いになる子供の行方を捜し続けるのでした。

残念なことに、クロハの心象描写の冗長さに加え、ストーリーの分かりにくさも感じてしまいました。普通の警察小説とは異なる、独自の世界であるだけに、もう少し分かりやすく書いて欲しいという気持ちは、本書で初めて持ちました。

そしてこれは以前から感じてはいたことですが、バーチャルの世界を描くときに、ノートパソコンの画面という二次元の世界であるにもかかわらず、まるで3D世界の中に放り込まれたかのような描写をしてあることにまで違和感を感じてしまいました。本書では物語の筋を追いにくいということもあってか、特にそのことを感じてしまったようです。

今のままであれば、今後このシリーズが続くとしても読まなくても良いかという気になってしまいました。

鈴木 英治 九層倍の怨-口入屋用心棒(29)


殆ど二年以上の間を置いて読んだ、シリーズ第29弾です。シリーズものを読むのにこれほど間をあけるといけません。物語の設定を忘れてしまっているのです。

湯瀬直之進が掏摸を捕まえたところ、翌日にはその意趣返しを受けるという事件があった。一方、定廻り同心樺山富士太郎は錠前師八十吉殺しの探索に精を出す日々だったが、目星をつけていた錠前屋の高久屋岡右衛門に対する疑いもなかなかに進展しないでいた。また、富士太郎から探索の手伝いを頼まれた直之進も同様に高久屋へとたどり着いていた。

久しぶりの鈴木英治作品でしたが、やはり独特の文体は読んでいて小気味のいいものでした。登場人物の内心の声がそのまま地の文となる、独白とも言えないその心裡描写は、視点がかなり移動するにもかかわらず、読んでいて戸惑うこともありません。

それどころか、かえって人物描写に奥行きが出て、物語に厚みを感じたりもするから不思議です。

勿論、直之進や富士太郎らの探索が実を結び、クライマックスには直之進、佐之助の剣戟の場面も用意してあり、読者を楽しませてくれます。

直之進と佐之助、それに琢ノ介に富士太郎と珠吉、そしてそのそれぞれにつきそう、おきく、千勢、智代らの女性たちが色を添えます。

本シリーズの場合、他の時代小説よりは女性自身が活躍する場面は少ないかと感じますが、それはそれでこのシリーズの特色だと思っていいのでしょう。

かなり間をおいたため、本書の舞台設定を理解したり、思い出すことに若干の時間を食いましたが、やはり面白い物語は面白い。再度読み始めようと思います。

佐伯 泰英 始末: 吉原裏同心(二十四)


吉原裏同心シリーズの第二十四弾です。

地廻りと呼ばれ、吉原の妓楼に上がらず素見をする一人の男の骸が切見世で見つかった。探索を始めた吉原裏同心・神守幹次郎は、下手人を川越に追う。一方、番方に女の子が生まれて沸く会所だが、突如現われた「倅」に悩む会所の七代目頭取四郎兵衛。「秘密」を打ちあけられた幹次郎は自ら動くが―。テレビドラマ原作となった人気シリーズ、待望の第二十四弾!(「BOOK」データベースより)

吉原の見世には上がらず、冷やかして回ることを楽しみとする輩を地廻りというそうです。その地廻りのひとりである葉三郎という瓦職人が、吉原でも下級とされる羅生門河岸の切り見世の遊女おこうの部屋でで首をつった状態で見つかります。しかし、葉三郎は吝嗇で知られており、店に挙がること自体が不自然でした。

幹次郎らの調べにより、行方の知れない遊女おこうの足抜けの様相が強まり、幹次郎はおこうの郷里である川越へ御足を延ばすことになります。

今回は、川越への水運の模様のについてのトリビア的な興味がありました。特に「飛切船」と呼ばれる超特急の高級魚用荷運船の川を遡る様子は興味をそそられます。

また、そうした土地柄の情景描写もいいのですが、やはり捕物帳としてみると、川越での探索、及びその結果であるおこうらの消息が気になります。そして本書では更に、子供が生まれるため幹次郎とは同行しない番方仙右衛門の様子、それに吉原会所七代目頭取の四郎兵衛の娘である玉藻につきまとう弟と称する男の影も明確になったりと、結構盛りだくさんです。

吉原という特殊な世界を舞台にしたこのシリーズは、吉原の本当の顔、金と欲とがうごめく裏の顔は見せていません。女たちは籠の鳥として描かれてはいても、それ以上の現実的な陰湿さ、悲惨さ、亡八たちの非人間性などは隠されています。

痛快時代小説である以上はそのことを取り立てて言うほど野暮でも無いつもりですが、やはりこれだけ長いシリーズになると若干のマンネリ感を感じるのはやむを得ないところです。

というタイミングでもあったのでしょうか、本シリーズもあと一作で一応の目途がつくそうです。このシリーズも新しい風を吹き込んでの出直しとなり、新しい展開としての再出発になるそうです。早く続編を読みたいものです。

森 絵都 みかづき


「教育」をテーマに、具体的にはほ「塾」それも補習塾を舞台にした親子三代にわたる人生を描いた大河小説で、2016年度の本屋大賞ノミネート作品です。

昭和36年。小学校用務員の大島吾郎は、勉強を教えていた児童の母親、赤坂千明に誘われ、ともに学習塾を立ち上げる。女手ひとつで娘を育てる千明と結婚し、家族になった吾郎。ベビーブームと経済成長を背景に、塾も順調に成長してゆくが、予期せぬ波瀾がふたりを襲いー。山あり谷あり涙あり。昭和~平成の塾業界を舞台に、三世代にわたって奮闘を続ける家族の感動巨編!(「BOOK」データベースより)

本文だけでも467頁という長編であり、読み始めは人物の描写もそれほどには掘り下げてはなく、登場人物に起きる出来事を消化するだけの、どちらかというと説明的な文章が続くという印象が強い小説でした。

しかし、全八章からなるこの物語を読み進めるうちに、次第に物語に惹きつけられていきました。一つには主人公である大島吾郎と赤坂千明という後に結婚する二人の経営する塾の発展していく過程の面白さであり、また衝突ばかり繰り返す二人の行く末に対する関心です。それに千明の子であり、二人の結びつきのかなめでもある蕗子の成長する様子もまた気になります。

そして何よりも、こうした物語の進行の背景にある「教育」についてのいろいろな考えが披露されていることに惹きつけられました。惹きつけられる、と言うと違うかもしれません。そうではなく、考えさせられた、というべきでしょうか。

学習塾と進学塾という分け方自体、自分には無い視点でした。そもそも私の小学生時代、つまりは六十年近くも前のことですが、その時代の地方にも塾はあったものの、それはあくまでも個人の経営する塾であり、大手の塾はなかったと思います。

私個人は塾に行ったことはなく、その雰囲気もよく分かりません。学習塾とは個々の児童の勉強を補う言わば補習塾であって、進学塾は文字通り進学のための塾、つまりは受験に必要なテクニックも含めて教える塾ということになります。

こうした塾の存在の背景には国の教育政策があり、その政策自体手探りなのですね。戦後の民主主義の理想に燃えた授業から、国策に沿った人材育成のための教育への転換があり、エリートを養成する教育へと変換していったと言います。

そうした観点自体を持っていなかった私にとって、如何に教育というものを考えてこなかったのか、と思い知らされる作品でした。

物語も終わり近くになる頃、「ゆとり教育」の本当の目的についてのお偉いさんの発言として、一部の知的エリートの存在と、そのエリートの判断に従って、彼らの手足となって働く能力を持った労働者の存在さえあればいい、という言葉が紹介してあります。

そうした視点は色々な物語の中で、特権階級の言葉として語られることはありましたが、それはあくまでエンタメ小説のお遊びだと思っていました。しかし、それは現実に教育課程審議会の元会長のゆとり教育についての発言としてあったというのです。

この言葉が現実に発せられた言葉であるかどうかの検証までは行っていません。しかし、作者の創作の言葉だとは思えないのです。

本書は、大河ドラマとしての登場人物たちの人生のダイナミックな変化、登場人物たちの属する組織、つまりは「塾」のあり方についての煩悶など、見どころはたくさんあります。

ただ、個々の人物についての書き込みを今ひとつ浅く感じてもいました。しかし、何となくの物足りなさを感じてしまったのは、本書が本屋大賞にノミネートされている作品であることからしても、個人的なものだと言うしかなさそうです。

そうした個人的感想を除けば、エンタメ小説として見ても、作者の主張の入った啓蒙小説として見ても十分な面白さを持った小説だと思います。

辻堂 魁 待つ春や 風の市兵衛


風の市兵衛シリーズ第十六弾です。

武州忍田領内で公儀御鳥見役が殺された。武州忍田領阿部家の上屋敷に、現在は俳諧師である元阿部家家臣芦穂里景が訪れると、阿部家の奥方より、殺された公儀御鳥見役の殺害犯人として捕らえられた笠木胡風を救い出すように、と頼まれる。そこで、芦穂里景は知己であった宰領屋の矢籐太を通じて唐木市兵衛を雇うことになり、芦穂里景の世話役の八歳の正助をも含めた三人は武州忍田へと向かうのだった。

時代小説の一つの典型として、ある藩の国元の重臣たちの専横があり、その専横に対して藩の良識ある人物たちが立ちあがり、自分たちの力不足をヒーローの力を借りながら横暴な重臣たちを排除する、という形があります。

本書はまさにその型通りの展開なのですが、作者次第でこうも読みごたえがある作品になるのかという見本のような作品です。

勿論、この物語が万人にとって満点というわけではなく、例えば個人的には弥陀之助の登場場面があればなおよかった、とか、市兵衛の動きがもう少し早めであればなど、それは個々人の要求に足りない個所はあるとは思います。

しかし、この作者の物語のすすめかたの巧みさ、情景描写の丁寧さは、物語の世界へと読者を誘う力が素晴らしいと、このシリーズを読むたびに思うのです。特に本書では、正助という童がかわいらしさを出しており、本シリーズの第二作目の『雷神』で登場した小僧の丸平(がんぺい)にも負けない存在感がありました。

このシリーズも今のところ(2017年7月現在)、第二十巻まで出ているようです。残りあと四冊の後は、この作者の他のシリーズを読んでみたいものです。

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(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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