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麻生 幾 ケースオフィサー








以前読んだ『ZERO』などの作品でもそうだったのですが、この作者の作品群では組織概要なども含め事柄の描写が緻密に過ぎ、情報量が多すぎて読み手が消化できずに終わる危険性が多分にあります。

本書ももちろんそうで、その上にアメリカ同時多発テロ事件のあった2001年と、名村が再度国際舞台へと戻る1983年以降の物語との二つの時系列の物語があり、その時系列の混在がさらに混乱に拍車をかけています。

また、私に限ってかもしれませんが、2001年の話の中に二十三年前の出来事が回想として挿入されている箇所があり、また混乱してしまいました。

つまり、本書での話の流れには1980年代の名村を中心とした話、2001年の流れの中に、名村、若宮、北村警部補それぞれの視点があり、そしてパンデミックを語る流れでの視点の変化と大きく分けただけでこれだけの視点の変化があり、さらに細かく時系列が入り組みますので、非常に読みにくい話になっているのです。

文庫本で上下二巻、800頁足らずの分量がありますから、一読しただけでは物語の全体像を見失ってしまいそうです。



さらに苦言を呈するならば、主要人物、例えば若宮賢治や松村一郎などの重要な役目を担っている脇役の描き方が中途半端に感じてしまいました。

本書で登場する官僚は殆どみんな自分の出世のため、という判断基準で動いている点はまだ小説として許せるかもしれませんが、例えば若宮賢治の人間像が出世欲のほかに今一つ見えてこないのです。

資料を読み込んで情景や組織構造などを緻密に描写するのであれば、その分、もう少し人間を描いてもらえればと思います。名村の奥さんなど一行、二行で処理されています。



しかしながら、やはりエンターテインメント小説として非常に面白いというのもまた事実です。

本書が実に真実味を持った物語になっているかは一読されてみればすぐにわかるかと思います。その真実性の上に構築されている虚構部分もまたリアリティを帯びていて、やはり惹き込まれてしまうのです。

国際社会での情報官らのやり取りにしても、どこまで事実に即しているのかは判断のしようはありませんが、所詮小説上での出来事であり、あり得ない事柄だと切り捨ててしまっていいものか迷ってしまいます。

文句はつけつつも、ほかの作品も手に取ることでしょう。それだけ面白い小説だと思います。

深緑 野分 ベルリンは晴れているか





第二次世界大戦後の連合軍の統治下にあるベルリンを舞台にした長編のミステリー小説で、第160回直木賞の候補になった作品です。

あらすじ
1945年7月。ナチス・ドイツが戦争に敗れ米ソ英仏の4ヵ国統治下におかれたベルリン。
ソ連と西側諸国が対立しつつある状況下で、ドイツ人少女アウグステの恩人にあたる男が、
ソ連領域で米国製の歯磨き粉に含まれた毒により不審な死を遂げる。
米国の兵員食堂で働くアウグステは疑いの目を向けられつつ、彼の甥に訃報を伝えるべく旅立つ。
しかしなぜか陽気な泥棒を道連れにする羽目になり――
ふたりはそれぞれの思惑を胸に、荒廃した街を歩きはじめる。


上記「あらすじ」は、筑摩書房の公式ページに記載されていたあらすじです。

本書で描かれる戦後ベルリンのでの一般市民の姿やユダヤ人の姿は決して明るくはありません。

また、現在の物語の進行の間に挟まれる、「幕間」として記述されているアウグステの幼いころからの物語で描かれるナチス、またドイツ一般市民、それに特にナチスに迫害されるユダヤ人の姿は悲惨です。


これまでいろいろな場面で見聞きしてきたナチスによるユダヤ人迫害の歴史をまた見せつけられるのはかなり気の重いことでした。また、戦中、戦後のベルリン市民の生活苦にしても同様です。

日本がそうであった時代と変わらないのでは、との印象を持ちながらの読書でした。

ただ、直木賞候補作となった作品であり、前作の出来が良かった、という事実だけで読み進めました。

確かに、読後の印象はそうは悪くありません。しかしながら、本書に描かれている状況の重さは、やはり、この傾向の作品はもう読まないでもいい、と感じたのも事実です。



ミステリーとしての本書にしても、明かされた謎は決して納得できるものではありませんでしたし、途中で感じた疑問点は最後まで残りました。

明かされる謎は確かに意外ではありますが疑問が残るものでもありました。

また、ドブリギン大尉は、当初からアウグステを目的地付近まで車で送ってやれば時間的にも無駄がないのに、ということもあります。



物語の合間に挿入される「幕間」と、その構成の持つ意味、何よりも四か国による統治下のベルリンという土地の描写力など、本書の持つ魅力は大きなものがあります。

ただ、物語の持つ「重さ」は決して簡単なものではありません。

そして、第154回直木三十五賞候補になった『戦場のコックたち』でも感じたことですが、「どの時代のどんな人物を題材にしようが、文学は自由」ではあるものの、なぜ舞台がベルリンである必要があるのか、ずっと疑問が付きまといました。

今村 翔吾 童の神





早大なスケールを持った長編小説で第160回直木賞の候補になった物語です。

目次
序章 / 第一章 黎明を呼ぶ者 / 第二章 禍の子 / 第三章 夜を翔ける雀 / 第四章 異端の憧憬 / 第五章 蠢動の季節 / 第六章 流転 / 第七章 黒白の神酒 / 第八章 禱りの詩 / 終章 童の神


タイトルの「童」とは、大陸から入ってきた言葉で、「雑役者」や「僕(しもべ)」を意味し、土蜘蛛、鬼、夷(えびす)ら化外の民の総称だそうです。

つまりは朝廷の支配が及んでいない「化外の民」をひとくくりに「童」の字を充て差別の対象としたわけです。

本書はこの差別の対象となった民の朝廷への反抗の物語です。

面白いのは、登場人物として私たちが子供のころに慣れ親しんだ金太郎などのおとぎ話の登場人物をあてていることです。

すなわち、大江山の酒吞童子の物語を化外の民の反抗の物語として再構成してあるのです。



主人公は桜暁丸(おうぎまる)といい、天延三年の凶事(日食)の時に生まれた子です。母は髪は黄金色で、肌が透き通るように白い容貌の漂着民であり、桜暁丸もその容貌を受け継いでいました。

この桜暁丸が長じて酒吞童子となり、虎熊童子、金熊童子、星熊童子、茨木童子らの助けを得て朝廷に対し戦いを挑みます。

この酒吞童子を、当然源頼光やその四天王である渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、坂田金時らが迎え撃つのです。



本書のうまいところは、単にこれだけの話しではなく、酒吞童子らの勢力を北方謙三版『水滸伝』の二竜山や双頭山のような、三つの山を中心とした勢力として構成しているところでしょう。

まさに北方水滸伝の物語をおとぎ話の登場人物らが繰り広げるのですから、面白いはずです。

そこに京に暮らす人々から差別を受けている民たちの目線を持ち込んで展開しているのです。ダイナミックな物語構成もエンターテインメント小説としての魅力を十二分に引き出しており、私の好みに合致した作品でした。



一昨日(2019年1月26日)、第160回直木三十五賞の発表があり、真藤順丈氏の『宝島』が受賞し、残念ながら本書の受賞はかないませんでした。

個人的な好みとしては本書に軍配を挙げたかったのですが、『宝島』も戦後沖縄の歴史を取り上げていて時代性を反映していて、さらに登場人物の躍動感もあり、これはこれで素晴らしい作品でした。

浅田 次郎 長く高い壁





浅田次郎の描く軍隊ものの長編ミステリー小説です。


日中戦争初期に起きた一つの分隊十人全員の死亡という事件は共産匪によるものだったのか、それとも日本軍内部の殺人事件なのか、従軍作家として派遣されていた小柳逸馬は、前線へと同行することになった川津中尉とともに謎の解明に挑みます。

二人を待っていたのは事なかれ主義の山村大尉であり、実際に憲兵隊を仕切っている二等兵から叩き上げの小田島軍曹でした。

しかし、この二人が小田島軍曹の力を借りつつも、青木軍曹、加藤一等兵、山村大尉、海野伍長、それに張氏飯荘オーナーの張一徳といった人物を尋問し、現場検証し真実にたどり着くのです。

その結果、探偵小説作家小柳逸馬の為した報告は・・・・・・。



物語の舞台は中国北部の万里の長城であり、そこの守備隊10人の死亡の原因を調べるために一人能入り探偵小説家が派遣されるという物語です。

ミステリーという形式のもとで探偵役の作家とそのコンビのような川津中尉との掛け合いの中で、事なかれ主義の山村大尉のもと、小田島軍曹の案内のもと、探偵役の作家小柳逸馬の目を通して、軍隊という集団の持つ理不尽さが明らかにされていきます。

そこには、実社会を反映して元は銀行員や教師、学生といった様々な人たちが、個々の能力は捨象され、一律に没個性的な軍人として、上官の命令は絶対という確立された命令系統のもとに存在していたのです。



ほかの浅田次郎作品とは若干毛色を異にした小説ではありますが、いろいろな登場人物の独白により構成されていくスタイルは浅田次郎の得意とする構成であり、人物の心象を深く表現する浅田次郎独特の文体もまた健在です。

やはり職人的な文章のうえに成立する物語は、心にしみます。
浅田次郎の作品にも、殆どはずれはない、といえるでしょう。

真藤 順丈 宝島





戦後沖縄史ともいうべき、長編のミステリー小説です。



オンちゃん二十歳、その弟レイが十七歳、そしてグスクが十九歳のあの夏の夜、嘉手納空軍基地(キャンプ・カデナ)の広大な敷地を方向もわからないままに、戦果アギヤーと呼ばれる彼らはヤマコの待つ場所へと、必死で逃げていた。

結局、皆とはぐれながらも脱出したグスクはヤマコにかくまわれて目を覚ます。結局、レイは入院し、オンちゃんは行方不明となっていた。

オンちゃんはどこに消えたのか、何故嘉手納基地への侵入がばれたのか、そもそもオンちゃんは何故嘉手納基地を進入対象に選んだのか、何もわからないままに時は過ぎていく。



「戦果アギヤー」とは、終戦後、アメリカ統治下時代の沖縄県で発生した略奪行為での、「戦果をあげる者」という意味だそうです(ウィキペディア : 参照)。

本書のオンちゃんはその「戦果アギヤー」の英雄であり、皆から尊敬される男の中の男でした。ところが、何故か警備の厳しいことで知られる嘉手納空軍基地への侵入を企て、その夜から行方不明になってしまったのです。



本書は、1952年のその夜から、沖縄返還のなった1972年までの、グスク、レイ、ヤマコの三人のオンちゃんを探し求める二十年間を描いた物語です。

すなわち、戦後沖縄で起きた米兵による数多くの強姦等の凶悪犯罪や、コザ市近くの米軍施設で起きた毒ガス漏洩事件や軍用機の墜落事件などの沖縄で現実に起きた事件を背景に、三人の成長する姿が冒険小説のように描かる、エンターテインメント小説なのです。



1972年に沖縄が返還されました。本書を読むと、当時は何も知らなかったのだと、あらためて思い知らされます。沖縄でいろいろな事件があったことを事実として知っているということは、決してその事実のあった現実を理解していることではないということです。



本書の著者である真藤順丈氏は、東京生まれで沖縄出身ではないそうです。沖縄へは三回、取材で行っただけだとありました。

そういう意味では本書で描かれている沖縄の人の感覚は事実かどうかは不明です。しかし、現地で取材をした作者の「私の書いたことに沖縄の人々が何らかの違和感を覚えることがあれば、批判を引き受ける必要があると思う」(「好書好日」 : 参照)という言葉は重みがあります。


本書はオンちゃん失踪という謎を持つミステリー仕立てになっており、またいろいろな知識をもたらしてくれたことも含めてそれなりに面白い作品だった、ということは言えますし、本書も持つ熱量を否定するものではありません。

しかし、本書を作品として面白い小説だったかと問われれば、私の好みからは少々外れていた、と言わざるを得ません。

沖縄の状況説明が詳細に過ぎたり、基地の中のウタキ(聖域)などを物語に登場させる意味が今ひとつわからなかったりと、素直に物語世界に没入できなかったのです。



それでも、本書は第九回山田風太郎賞を受賞し、さらには第160回直木賞の候補作になっているほどに高い評価を受けている作品です。単に私の感性が追い付いていないだけというしかありません。

高田 郁 花だより みをつくし料理帖 特別巻





明けまして おめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。


私にとり、昨年は持病の強直性脊椎炎からくる目の病に悩まされた一年でした。ブドウ膜炎から緑内障になり、左目の中心部はほとんど見えません。眼圧も下がらず、手術へ。そうしているうちに右目もブドウ膜炎を発症し、眼球への注射の日々でした。

ほかの持病もありましたが、一応数年間の様子見という猶予をもらっています。

今年は穏やかな一念でいたいものです。

皆様は、くれぐれも健康には留意され、健やかな年をお過ごしください。



ということで、本書。
昨年中に読み終えていた作品です。

シリーズとしては終了している「みをつくし 料理帖」の特別巻です。

目次

花だより ―愛し浅蜊佃煮 / 涼風あり ―その名は岡太夫 / 秋燕 ―明日の唐汁 / 月の船を漕ぐ ―病知らず




花だより ―愛し浅蜊佃煮
明けて七十四歳になった「つる屋」の店主、種市は、行き倒れていた水原東西と名乗る易者を助け、来年の桜を見ることはかなわない、と告げられ体調不良に陥ってしまう。その様子を見た戯作者の清右衛門は、自分の筆が進まないこともあり、「会いたいなら会いに行けばよい。」と言い切り、自分も大坂へ行くと言い出すのだった。

シリーズ終了後の「つる屋」の様子を記した一編。水原東西との出会いの偶然引き起こした顛末ですが、私があまり好まない偶然が鍵となる作品でした。あまり感心しません。

涼風あり ―その名は岡太夫
御前奉行の小野寺数馬の妻乙緒(いつを)は嫁いで早や六年。乙緒の眼は糸を引いたかのごとく細く、「笑わぬ姫君」と呼ばれていた。義妹の早帆(さほ)が数馬のかつての想い人について乙緒に漏らしてしまい、乙緒は、「出来うるならば、己よりも相手の人生を重んじるほどに、想われたかった。心から愛おしいと、想われたかった。」という思いに囚われてしまう。そこに、今は亡き義母の言葉を思い出す。

夫婦のありようを考えさせられる一編でした。高田郁らしい、人を思う心、相手を思いやる心の美しさを、少々都合がよすぎるきらいはあるものの、うまく描き出してあります。

秋燕 ―明日の唐汁
二十年前の享和の大水で全員が亡くなったはずの淡路屋は、野江を主人として「高麗橋淡路屋」として再建されていた。外出から帰ったその野江を迎えたのは、先代番頭の龍助こと龍蔵の一子辰蔵だった。大坂に来ていた摂津屋の助五郎と、澪の店「みをつくし」で会ったのはそれからすぐであり、大坂の「女名前禁止」という掟のため、三年のうちに野江が高麗橋淡路屋の主人を決めなければならないのだった。

「みをつくし」本編では語られていなかった、野江の苦労を描いてあります。本編で重要な役割を担っていた又次という料理人と野江とのかかわりを、また摂津屋らとの関係も併せて描いてあります。ただ、やはりあまりにも野江に都合のいい展開ではありました。
ここまで行くと、ちょっとあり得ないという印象です。

月の船を漕ぐ ―病知らず
澪の夫源斉は、流行りのころりに対し医者としての無力さを感じたのか、ころりが去ったある日倒れてしまい、澪の手作りの料理にも手を付けられないでいた。そんな時、澪の店の先代家主の庄蔵はころりのために亡くなり、後を継いだ家主は立ち退きを迫っていた。そうした様子を見た野江は、『奈落の底の底』にいた自分を救ってくれたのが「又次の作ってくれた唐汁だした。」と言うのだった。

本編終了後の澪の姿が描かれた作品です。相変わらずに料理に対し真摯な澪です。料理に正面から向き合い、悩むいつもの澪です。



この作品をもって「みをつくしシリーズ」は終わると、巻末の「瓦版」にありました。

ずるずると引きずるよりもいいのかもしれない、とも思いますが、できればその後の澪の姿を読んでみたいものです。
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Author:siro
このブログの本棟として本の紹介のサイトを開いています。
(こちらです⇒読んだ屋
本ブログを別棟として位置付けて、読んだ本を記録していこうと思い立ちました。ここでの文章を母屋であるそのサイトに転記していくつもりです。

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