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梶 よう子 ヨイ豊


幕末から明治初期の市井の様子を交えながら、浮世絵が忘れられていく姿が丁寧に描かれている長編小説です。第154回直木賞の候補作品です。

三代豊国が逝き、歌川門を率いる四代豊国を誰が継ぐかが関心の的だった。二代目歌川国政を経て二代国貞を継いでいる清太郎は、弟弟子の八十吉の実力こそが相応しいという本心と共に、八十吉に対する妬心もあって自らが継ぐとは言い出しかねていた。そうしているうちに時代は移り明治の世となり、江戸は見る間に無くなっていくのだった。

本書の主人公は二代国貞の清太郎という浮世絵師です。この男の絵師としての心意気、弟弟子への嫉妬などの浮世絵に対する思いを、これでもかと言わんばかりに追及し、描写してある力作です。

代わりに、エンターテインメント小説としての起伏のあるストーリーはありません。勿論、消えゆく絵師たちの動向、幕末から明治初期にかけての市井の様子、錦絵の世界に関心がある人には、それなりの展開のある物語と言えるでしょうが、それ以外の人にはいわゆる面白みには欠けると映るのではないでしょうか。

私も序盤途中まではこの作家にしては今一つ好みに合わないかと思いながら、それでも直木賞の候補作なのだからと言い聞かせ読み進めました。しかし、本書の性格、内容が把握でき、主人公の浮世絵そのものに対する思い、そして浮世絵を描く自らの力量について煩悶が少しずつ分かってくるにつれ、この物語に引き込まれていました。

「浮き世は憂(う)き世。はかなく苦しい現の世なら、憂(うれ)うよりも、浮かれ暮らすほうがいい。極彩色に彩られた浮き世の絵は、俗世に生きる者たちの欲求そのものだ。」というのは本書冒頭で書かれている文言です。続いて「卑俗で、猥雑で、美しい」のが浮世絵であり、禄をはむ奥絵師や本絵師などとは異なり、「刹那に浮き世を描くのが町絵師だ」ともあります。

物語全般がこの絵師の心意気で彩られ、そして終盤、本書の「ヨイ豊」というタイトルが深い意味をもって読者に迫ってくるのですが、併せて、失われていく江戸の町を哀しみながら「江戸絵」を書きたいと言う絵師たちの言葉は、深く心に染み入ります。

主人公の清太郎の師匠である三代歌川豊国という人は、歌川門の中興の祖と言われるひとで、美人画・役者絵は抜きんでていたそうです。後に四代豊国を名乗る清太郎は、その力量において三代には遠く及ばないというのが一般の評価で、その事実が本書の主題ともなっています。

本書ではもう一人、八十吉という弟弟子が登場します。三代歌川豊国に一番近いという実力の持ち主で、その奔放さに振りまわされる清太郎です。この男が後の豊原国周で、この名前も物語上大切な意味を持ってきます。

八十吉が鳶と役者のけんかに巻き込まれ、師匠の三代豊国から「国周」というその時の画名の使用を禁じられる場面があります。その時清太郎が八十吉のために師匠に土下座をして画名を取り戻すことを頼みこむのですが、ここでの描写にはせつないものがあります。「八十吉がいなくなれば、どこかでほっとする自分がいることも感じている。・・・だが、あいつは歌川にいなきゃあならねえ」と思うのです。

本書は文体としては三人称の物語なのですが、全般的に視点は清太郎であり物語全般が清太郎を中心として回っています。また、激動の明治維新期という歴史の一大転換点において、その事実は物語の背景で触れられるだけです。一般市民の生活はそうした事実とは無関係に営まれているのです。。

芸事の、難しい世界を描いた読み手の心に深く迫る佳品だと深く思う一冊でした。

蛇足ながら、本書の装画・挿絵を描いている一ノ関圭氏は、昔ビッグコミックという雑誌で何度か読んだ人です。思いもかけずこういう形で見かけるとは思いませんでした。画力の高さには定評のある作家さんで、浮世絵氏の物語も書かれていた記憶があります。

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