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朝井 まかて 眩


様々な形で小説にも描かれてきた、それも北斎が描かれる際に、脇役として変わった女として描かれることの多かった娘栄(えい)。本書はその栄を主人公として、女絵師応為(画号)を活写した長編小説です。

偉大すぎる父・北斎、兄弟子・渓斎英泉への叶わぬ恋、北斎の名を利用し悪事を重ねる甥―人生にまつわる面倒ごとも、ひとたび筆を握れば全て消え去る。北斎の右腕として風景画から春画までをこなす一方、自分だけの光と色を終生追い続けた女絵師・応為。自問自答する二十代から、傑作「吉原格子先之図」に到る六十代までを、圧倒的リアリティで描き出す。(「BOOK」データベースより)

本書のお栄(応為)は、これまで描かれてきたどの作品よりも一番生きてると感じられ、本書帯の文句にあった「圧倒的リアリティ」という言葉に納得させられました。それは絵師としての応為であり、女としての栄の思いであり、更に北斎と小兎の娘の栄であって、時次郎の叔母としての栄でもあるのです。

浮世絵という世界に浸っている北斎と、同じくその世界であがいている応為の姿が、「絵(浮世絵)」というものの素人である私たち読者に分かりやすく描かれています。

彼女の悩みは、父親のような美しい、思いきった線を引けるようになることでもあるのでしょうが、何よりもこの世の真の色を絵の中に落とし込むことでもあります。全編を通して、応為はいつも色を作り出しています。それは、つまりは貝殻をすりつぶすなどの、絵の具を作りだす作業なのです。

こうした、「色」を作ろうとする応為の行為は、最終的には本書の装丁にも使われている「吉原格子先図」へと結びついていくのでしょう。この光を描く作業は「夜桜美人図」などにも見られるところであり、「東洋のレンブラント」などと称され、応為の再評価につながっているそうです。

一方、女としての応為が随所に顔を見せています。善次郎に寄せる秘めた想い。その想いが成就する場面は官能的です。ここでも「あたしはとうとう毒を食らうのだ。そう思うと、目眩がした。」と「眩」が出てきます。このあと大火などがあって、北斎の家にも寄り付かなくなった善次郎を思う場面で、「誰かと深くなれば、そのぶん遠ざかるものがある。あたしは何を失ったのだろうか。」と独白している応為の姿が印象的でした。

変人北斎のもと、口うるさい母親の小兎(こと)の小言を聞き流し、絵師として名を為していて、「いい女を抱くため」に頑張っているという善次郎こと渓斎英泉にいつしか心惹かれ、そして北斎一家に災難しかもたらさない甥っ子の時太郎に振り回されるしかない応為で、その姿は同じく淋しげです。

クライマックスで、吉原の夜景の美しさをいかに写すか呻吟する場面は圧巻で、そして「命が見せる束の間の賑わいをこそ、光と影に託すのだ。そう、眩々(くらくら)するほどの息吹を描く。」と決めるのです。ここでもタイトルの「眩」が貌を見せています。

まだこの物語の始めの頃、善次郎と共に女芸者である善次郎の妹たちの三味線、琴、胡弓の合奏の場面があります。彼女らの演奏の音を追いながら蝶が飛び立つ想を得るのです。この場面の直前に善次郎が妓楼の襖絵に描いた蝶の絵を思います。ここで大空へ飛び立つ蝶は、侍の身分から解き放たれ、自由を得た善次郎であり、一人の女にもとらわれない善次郎なのかもしれません。

この思いは、この物語の最後に、応為が「どこで生きても、あたしは絵師だ。」と踏み出す姿に重なりました。

最後に挙げられている参考文献は十九冊にもなっていました。緻密に調べられているこの物語は、朝井まかてという作家の上手さを思い知らされる物語でもありました。

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